古代から日本に根付いた神社は明治時代には最も大きな転換期を迎えたと言えます。この時、行われた神道に関する政策は多くありますが、直接神社に影響を与えた政策の一つに「神社合祀政策/神社合祀令」というものがあります。
神社合祀という言葉を聞いたことはあっても、なぜ行われたか・どのように行われたかを知っている人は少ないと思います。
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目次
神社合祀政策とは
神社合祀政策とは奉仕の体勢ができていない小神社を近隣の神社に合併させ、原則として行政区ごとに1社、無格社は村に1ないし数社に半強制的に減らす方針のことを言います。
神社合祀政策についての直接的な法令はありませんでしたが、様々な政策や官人の思惑をはらんで行われていきます。
当時の神職職制では無格社にも社掌を置くことになっていましたが、神社の数に比べて当然神職の数の方が圧倒的に少ないため、合併は下級の民社を中心に行われました。
神社合祀政策の背景・歴史
江戸幕府が政権を明治政府に返還し、明治政府は天皇の元首とした国家体制の形成を目指します。
その一環として明治政府は神社を「国家の宗祀」として位置づけ、神道の社会的地位を確立しようと考えました。
日露戦争後の地方改良運動が神社合祀を進めた
日本は明治37年(1904)2月から明治38年(1905年)9月にかけて日露戦争を経験します。一年半以上にも及ぶこの戦争で日本という国はたいへんに疲弊していました。
終戦直後には「地方事務ニ関スル注意参考事項」として町村に関する地方改良事業が示されます。
その内容には部落統合財産の確立の障害となる神社の統廃合や地方の祭礼や休日の廃止による労働効率化があります。
神社合祀を進めた法令「府県社以下神社神饌幣帛料供進制度の影響」
最初の段落で神社合祀を直接的に進める法令はなかったと説明しましたが、結果的に推進させた例として府県社以下神社神饌幣帛料供進制度が挙げられます。
この法令は明治39年4月30日には府県が府県社に、郡または市が郷社に、市または町村が村社に神饌幣帛料を供進することができる旨を発出し、その対象となる神社について次の基準が定めたものです。
- 延喜式内社、六国史所載及創立年代之準ずべき神社
- 勅祭社、準勅祭社皇室の御崇敬ありし神社
- 武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし神社
- 祭神当該地方に功績または縁故ありし神社
- 境内地150坪、本殿、拝殿、鳥居等完備し、50戸以上の氏子もしくは崇敬社を有する神社(地域によっては100坪とされた)
- 前期各号のほか特別由緒ある神社
このような法令により神饌幣帛料を受ける神社を残してそれ以外の小規模の神社は整理していくべきであるという風潮が生まれ神社合祀が行われました。
神社合祀政策の手続きと特徴
神社合祀が本格化したのは明治39年(1906年)ごろのことです。明治39年に原敬内務大臣のもとで神社の合祀政策が始められ、明治41年~42年(1908~1909)に頂点に達します。
神社合祀の方法は、まず被合祀神社の氏子が役所に合併の願書を提出し、役所が許可を与えた後に御神体を合併先の神社に奉安して、最後に合祀したことを役所に報告して終了という形式をとっていました。
氏子が願書を提出すると聞くと神社合祀は住民の自由な意思に任されていたように聞こえますが実際はそうではなく、地方官は自身の功績のために政府の政策に従い半強制的に合祀を進めていくのでした。ここで覚えておかなければならないこととして神社合祀についての直接的な法令が制定されたわけではなく、政府によって奨励されていただけであるという点です。
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神社合祀政策を正当化するために挙げられた理由は主に3つ
神社合祀政策の目的
・その1
経済論
これは神社の数が減れば住民の負担が軽くなるとするものです。
神社を廃止し1つの神社に集めることで、住民の支出も抑えられるのではないかと考えるのが経済論です。
・その2
敬神論
神社を廃止し1つの神社に集めることで、神社設備が充実し崇敬者の神社に対する畏敬の念も増すのではないかと考えるのが敬神論です。
・その3
神社中心説
神社を廃止し1つの神社に集めることで、同一氏子地域が広がるため広範囲の住民が融和して団結が強くなると考えるのが神社中心論で、神社合祀により強固な住民自治が確立すると主張されました。
このような考え方が論じられた理由として、当時の政府官僚は東京帝国大学法学部の出身者が多く、そのような人々はドイツに留学することが多くあったことが挙げられます。ドイツでは教会を中心としたまちづくりが行われており、これを理想として日本に持ち込んだ時に教会の役割を担わせたのが神社だったのです。
【南方熊楠】神社合祀政策への反対意見
神社合祀は地方間の裁量に任せられていたため都道府県によって神社の減少数には大きな差があります。
北海道や沖縄ではそもそも神社の数も少ないという事情もあり、ほとんど影響はありませんでしたが、三重県では5,547減、和歌山県では3700減とたいへんな被害を受け、大正9年(1920年)に採択された「神社合祀無益の決議」までに約8万社が合併され、明治初年の19万社~20万社から11万~12万社に神社の数は減少してしまうのでした。
神社合祀によって多大な被害を受けた神社界でしたが、これに立ち向かい反対意見を述べた人物がいます。
それが南方熊楠です。
南方熊楠は和歌山県の生物学者で、自然保護運動を先駆けて行った人物とも言われています。
南方熊楠は「古来老樹大木ありて社殿なき古社多かりし。これ上古の正式なり。」という言葉を用いて、社殿のない神社に無理やり社殿をつくることにより鎮守の森が破壊されていることを嘆いていまいした。
『神社合祀反対意見』『神社合祀に関する意見』では神社合祀が「敬神思想を高めるとは欺瞞であり、むしろ下がる」とし、その具体的な悪影響について
- 民の和融を妨げる
- 地方を衰微させる
- 国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を妨害する
- 愛郷心と愛郷心を損ずる
- 土地の治安と民利に大害あり
- 史蹟と古伝を滅却する
- 天然風景と天然記念物を亡滅する
と説明しており、松村任三・川村竹治・白井光太郎らに書簡を送っています。
これらの告発に加え、柳田国男らの協力により大正9年には「神社合祀無益の決議」がなされ、神社合祀には終止符が打たれたのです。
神社合祀政策の効果
効果1 民間神道や民俗行事が失われた。
神道というものは各地に存在する民俗信仰の集合とも説明でき、全国各地にそれぞれの神、ぞれぞれの祭祀がありましたが、明治政府は民衆信仰は迷信として排除する方針をとったため、それらは消失してしまったと言えます。
効果2 祭神の転化
神社にはその土地ごとに縁故のある神を祀ることが多くありましたが、神を道徳心に転化し土地神ではなく、皇祖神のほか記紀に現れる神とされました。
効果3 民衆と神社の遊離
一町村一社とすることで住民掌握の単位を明確にすることを目的としていた神社合祀ですが、合祀により合併先の土地と関係のない神が祀られることになってしまいまい、住民の精神的な支柱が失われていくことになりました。
神社合祀後の対策
神社合祀後に行われた主な対策は以下の通りです。
- 代替施設の設置
- 祭礼の持続化
- 復旧
1は合祀後に多くとられた対策ですが代替施設の設置は行政上認められている方法ではありませんでした。
2は神社がなくなっても伝統的な行事は継続していくという方法です
3は戦後10年のうちにとられるようになった対策で、合祀先の神社から分祀し改めて神社を創設するという方法です。