古事記・日本書紀では三種の神器の出現について語られており、これらは現在に至るまで重要な神宝として神格化されています。三種の神器は神代から伝わるものですが、これまで種種の事情によりいくつかの地点を移動しながら現在のそれぞれ離れた地に定まっています。
今回は三種の神器の出現と歴史的な奉安地の変遷についてわかりやすく紹介してい行きます。
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目次
三種の神器は八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉からなる宝物
三種の神器は以下の三種の宝物からなります。
八咫鏡
天叢雲剣(草薙剣)
八尺瓊勾玉
それぞれの神宝にはいくつかの表記がありますが、今回は『日本書紀』の表記に統一してあります。これらの神宝は高天原という天上世界から天孫降臨の際に我が国土にもたらされました。
次の段落ではそれぞれの宝物がどのようにして現れたのか『古事記』『日本書紀』の記述を引用しながら紹介します。
八咫鏡とは天照大御神の天の岩戸隠れの際にイシコリトメ命がつくったもの
まず八咫鏡がつくられた際の記述を紹介します。
『古事記』
天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日神の子 思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集め鳴かしめて、天の安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せ鏡を作らしめ(中略)天の香山の天の五百津真賢木を根こじにこじて、上枝には八尺の勾玉の五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝に八尺鏡(八尺を訓みてヤアタと云ふ。)を取り繋げ
『日本書紀』
上枝には八坂瓊五百箇御統を懸け、中枝には八咫鏡(一に云はく、真経津鏡)を懸け
上記はスサノオ命の横暴により天照大御神が岩戸に隠れた際の記述です。この記述から八咫鏡はイシコリドメ命によってつくられ、サカキの中枝にかけられたということが分かります。
ちなみに『日本書紀』にはイシコリドメ命が天の岩戸隠れに際してまず日像鏡・日矛鏡を鋳造し、その後に八咫鏡を鋳造したということが記されており、これらは和歌山市の日前神宮・國懸神宮の御神体となっています。
八尺瓊勾玉とは天照大御神が天の岩戸隠れの際に玉祖命がつくったもの
まず八尺瓊勾玉がつくられた際の記述を紹介します。
『古事記』
玉祖命に科せ八尺の勾玉の五百津のみすまるの珠を作らしめて(中略)天の香山の天の五百津真賢木を根こじにこじて、上枝には八尺の勾玉の五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝に八尺鏡(八尺を訓みてヤアタと云ふ。)を取り繋げ
『日本書紀』
上枝には八坂瓊五百箇御統を懸け、中枝には八咫鏡(一に云はく、真経津鏡)を懸け
上記は先ほど紹介した八咫鏡がつくられた際と同様の場面の引用で、この記述から八尺瓊勾玉はタマノオヤノ命によってつくられ、サカキの枝に上の枝にかけられたということが分かります。真経津鏡とは霊力の強い鏡という意味です。
ここまでで八咫鏡と八尺瓊勾玉は共に天照大御神の岩戸隠れの際につくられたいうことを覚えておいてください。
天叢雲剣(草薙剣)とはスサノオ命が出雲国でヤマタノオロチを退治した際に尾から発見したもので高天の原に帰って天照大御神に献上された
これまでと同様に、まずは天叢雲剣が現れた際の記述を紹介します。
『古事記』
故、其の中の尾を切りたまふ時に、御刀の刃毀けぬ。しかしてあやしと思ほし、御刀の前以ち刺し割きて見そこなはせば、都牟羽の大刀在り。故此の大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上りたまふ。是は草那芸之大刀なり。
『日本書紀』
時に素戔嗚尊は所帯する十握剣を抜き、その蛇をつだつだに斬る。尾に至り、刃が少し欠けぬ。その尾を裂きて視せば、中に一の剣あり、此所謂草薙剣なり。(草薙剣、此をクサナギノツルギと云ふ。一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇の居る上に常に雲気あり。故以て名くるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふ。)素戔嗚尊の曰はく、「是、神剣なり、吾いかにぞ敢えて私に安けらむや、すなはち、天神に上献ぐ。
上記は天照大御神の天の岩戸隠れの場面を終え、スサノオ命が地上世界に降りヤマタノオロチを退治する場面です。記紀どちらでもヤマタノオロチの尾から現れたとされており、『日本書紀』ではヤマタノオロチの上に常に雲があったため天叢雲剣と呼ばれ、ヤマトタケルの時代からは草薙剣と呼ばれたということが加えられ、さらにスサノオ命が天照大御神に献上した旨が加えられています。
ヤマタノオロチ討伐の舞台は出雲国ですが、島根県の荒神谷遺跡で大量の銅剣が出土していることも草薙剣に関わる物語とも関係しているかもしれません。ちなみに、ここで出土している銅剣を含め古代の剣は直刀であり、私たちが時代劇でよく見る反りのある形になっていくのは平安・鎌倉時代以降ですので、草薙剣は直刀ではないかと推測できます。
天孫降臨の際して高天原から瓊瓊杵尊が授けられる「宝鏡奉斎の神勅・侍殿防護の神勅」
天の岩戸隠れ、ヤマタノオロチ討伐を経て三種の神器は高天の原に集まりました。
物語は進み天孫降臨の場面になると、三種の神器の安置場所が遷されることになります。
以下、天孫降臨の場面を紹介します。
『古事記』
是に其のをきし八尺の勾玉・鏡と草那芸剣、また常世思金神・手力男神・天石門別神を副へ賜ひて詔りたまはく、「此の鏡は、もはら我が御魂と為て、吾が前を拝むが如く、いつき奉れ。」
『日本書紀』
天照大神、乃ち、天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八坂瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙劔、三種の宝物を賜ふ
天孫降臨の際には天照大御神からいくつかの神勅が下されましたが、『古事記』では宝鏡奉斎の神勅について記されています。天孫降臨に際して下された三大神勅(五大神勅)についてはこちらの記事をご覧ください。
三種の神器はどこに祀られてきたか ~神話の時代から現在までをわかりやすく~
八咫鏡 | 八尺瓊勾玉 | 草薙剣 |
---|---|---|
イシコリトメ命がつくる | タマノオヤ命がつくる | スサノオ命がヤマタノオロチ討伐した際に尾から現れ、天照大御神に献上される |
天孫降臨 | 天孫降臨 | 天孫降臨 |
神武東征を経て宮中にて祀られる | 神武東征を経て宮中にて祀られる | 神武東征を経て宮中にて祀られる |
崇神天皇の御代に豊鍬入姫命と共に宮中を出て、代わった倭姫命によって伊勢で祀られる | 崇神天皇の御代に豊鍬入姫命と共に宮中を出て、代わった倭姫命によって伊勢で祀られる | |
ヤマトタケル尊が東征に際して授けられる | ||
東征を終え都に帰る際に尾張の宮簀姫命に授けられた後、熱田神宮に祀られる | ||
新羅の僧 道行に盗まれたが、還され以後宮中にて祀られる | ||
天智天皇の時代に熱田神宮に還される | ||
戦中に飛騨一宮水無神社に一時留め置かれるも、再び熱田神宮にて祀られる |
八咫鏡は崇神天皇の御代に宮中を出て豊鍬入姫命・倭姫命の巡行を経て現在は伊勢神宮で祀られる
これまで宝鏡奉斎の神勅(同床共殿の神勅)を根拠に歴代の天皇と床を同じくして祀られていましたが、第10代崇神天皇の御代になるとそのお祀りの仕方が変わります。
『日本書紀』
是より先、天照大神・倭大國魂、二神を天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢を畏りて共に住みたまふに安からず。
上記は崇神天皇の御代に八咫鏡が宮を出たということを示す場面です。崇神天皇の御代には疫病の流行、自然災害の頻発など様々な困難に直面しました。崇神天皇はこれを天照大御神のお力が凄まじいことによるものだと考え豊鍬入姫命に八咫鏡を授け、八咫鏡をお祀りするのにふさわしい地を探し回ることになりました。この豊鍬入姫命の役目は倭姫命に託されました。
第11代垂仁天皇の御代に倭姫命が伊勢の地にたどり着いた際に天照大御神より「この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ」という神託があったため、伊勢の地が天照大御神の御静まりになる大宮として定まることとなりました。
現在でも八咫鏡は伊勢の神宮に祀られており、天照大御神の御霊代として篤い奉斎を受けています。
天叢雲剣(草薙剣)は伊勢で祀られた後、ヤマトタケル尊の東征に際して授けられ現在は熱田神宮で祀られる
前段でお話したように崇神天皇の御代に八咫鏡は宮中を出たとされていますが、この時に草薙剣も宮中を出たことが『古語拾遺』に記されています。
ヤマトタケル尊が第12代景行天皇から東征を命じられて伊勢の倭姫命のもとを訪れた際には草薙剣を受け取っており、このことからも草薙剣が伊勢の地に安置されていたことが分かります。
草薙剣が現在のように熱田神宮に祀られるまでの経緯は他の神宝と比べて複雑ですのでいくつかの段落に分けて紹介します。
【天叢雲剣から草薙剣へ】ヤマトタケル尊の東征と尾張の宮簀姫命に授けられるまで
景行天皇の御代になるとヤマトタケル尊は西征を終えて間もなく東征を命じられます。東征に向かう前にヤマトタケル尊は倭姫命のもとに向かったとされています。
『日本書紀』
倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰はく「慎みて、な怠りそ」
上記は倭姫命がヤマトタケル尊に草薙剣を授けたことが記された場面です。ここからヤマトタケル尊は現在の愛知県にあった尾張氏の館を訪れ宮簀姫命と婚約してさらに東へ向かいます。
さて、ヤマトタケル尊が駿河に入った際に事件が起こります。以下、その場面を記した古事記の記述をご覧ください。
国造が偽って「この野の中に大きい沼があります。この沼の中に住む神はひどく強暴な神です」と申した。そこで、その神をご覧になろうと、その野にお入りになられた。すると国造が火をその野に放った。そこで倭建命は騙されたと知って、その叔母の倭比売命が下さった袋の口を解き開いてご覧になると、そこには火打石があった。ここで、まず草薙の剣で草を刈り払い、その火打石で火を打ち出し、向かい火を着けて燃え来る火を焼き退け、野の中から脱出して戻って、ことごとく国造らを切り殺し、火をつけて焼いておしまいになった。それで、今もそこを焼遺という。
このように騙されたヤマトタケル尊が剣で草を薙ぎ払って窮地を脱したことから天叢雲剣は草薙剣と呼ばれるようになったということが理解できます。
また、先ほども紹介しましたが、『日本書紀』には「一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇の居る上に常に雲気あり。故以て名くるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふ」という記述もされています。
このようにいくつかの困難を越えて帰還することになったヤマトタケル尊ですが、まずは東征の始めに婚約をしていた宮簀姫命のもとに向かいます。ヤマトタケル尊は尾張氏の館でしばしの休息を終えた際に、草薙剣を宮簀姫命に授けて伊吹山の荒ぶる神を退治しに向かったとされています。
ちなみに、ヤマトタケル尊が宮簀姫命に草薙剣を授けた経緯について『尾張国風土記』では厠に向かった際に木に立てかけておいたのを忘れたということが記されているなどいくつかの興味深い伝承があります。
『尾張国熱田太神宮縁起』によると草薙剣を授けられた宮簀姫命は尾張氏の館にそのまま留め置いてお祀りしていたようですが、晩年に現在の熱田神宮を創建して祀ったとされています。これについても、初めから熱田の地に祀ったという説や天智天皇の御代に熱田に遷されたとする説など様々な説があります。
草薙神剣が宮簀姫命に授けられてから新羅の僧 道行の悪行により天智天皇から天武天皇の御代まで宮中に定め置かれ、再び熱田神宮の土用殿に祀られるまで
ヤマトタケル尊が宮簀姫命に草薙剣を授けたことで熱田神宮が創建されたのですが、現在に至るまで常に熱田神宮に安置されていたわけではありません。まずは天智天皇の御代に起こった草薙剣の盗難事件について紹介します。
天智天皇7年(668)に新羅の僧である道行によって熱田神宮から草薙剣が持ち去られます。初めに盗まれた際には草薙剣は道行の袈裟を抜けて、ひとりでに熱田に戻ったとされています。再び盗みを試みた際には船で港をでたものの風波のため難波に漂流し、道行は剣を捨てれば捕らえられないだろうと考えましたが剣は身を離れず、ついに術が尽きて自首したとされています。
これより以降は宮中に留め置かれることになりましたが、朱鳥元年(686)6月に天武天皇の不予により再び熱田神宮で祀られることとなりました。また、草薙剣はいつのころからか熱田神宮の正殿ではなく土用殿という社に遷されました。
草薙剣の第二次世界大戦中の熱田神宮から飛騨一宮水無神社への御動座
天武天皇の御代に再び熱田神宮に奉斎されることになった草薙剣の剣ですが、近代になってからも一時的に熱田神宮を離れることがありました。
それは第二次世界大戦末期のことで、名古屋の大空襲や戦後の混乱を避けるために飛騨一宮水無神社に一時的に疎開されています。この疎開は1ヶ月程度であり、昭和20年(1945)年9月に熱田神宮に戻されました。
現在、宮中には八尺瓊勾玉の他に八咫鏡と草薙剣の形代があり、これらは宮中三殿の賢所と剣璽の間に安置される
ここまで三種の神器の出現と歴史的な奉斎地の変遷を確認しながら、八尺瓊勾玉は宮中、八咫鏡は伊勢の神宮、草薙剣は熱田神宮に安置されているということを紹介してきました。
三種の神器の神祇はご存じの通り神代から皇室に伝わる重要な神宝であり、上記の三所に安置しているもの以外にも形代というものがあることを紹介します。
形代とはいわゆるレプリカのようなものですが、神代由来の三種の神器と同様に御神霊が依りついているということには変わりありません。本来は宝鏡奉斎の神勅にあるように天皇陛下と同じ宮に置かれていなけれなりませんが、崇神天皇の御代の出来事を契機として八咫鏡と草薙剣はそれぞれ神宮と熱田神宮で祀られることとなりました。そこで、形代をつくって神代由来の神器と同様にお祭りしようということになりました。
『古語拾遺』によると斎部氏が石凝姥命と天目一箇神の子孫に八咫鏡と草薙剣の形代をつくらせたとある
『古語拾遺』
斎部氏をして、石凝姥命の裔と天目一箇神の裔の二氏を率いて、更に鏡を鋳、剣を造らしめたまひて、護身の御璽と為したまひき
こちらは斎部氏がイシコリトメ命の末裔と天目一箇神の末裔に八咫鏡と草薙剣の形代をつくらせたことが記されています。イシコリトメ命は天の岩戸隠れの際に八咫鏡をつくった神であり、天目一箇神も天の岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸の鋳造を担当した神です。三種の神器がつくられた際に重要な役割を果たした神々の子孫に新たな鏡と剣をつくらせたということです。
八咫鏡の形代が清涼殿、温明殿(内侍所)、春興殿を経て宮中三殿の賢所に祀られるまで
八咫鏡は律令に後宮の蔵司の職員である尚蔵・典蔵が神事を保管することが記されています。
鏡は平安時代前期までは天皇の生活の場である清涼殿で祀られていましたが、平安時代中期ごろになると宝鏡は神霊であるという神格化がさらに強まり、宇多天皇の御代に生活の場が清涼殿に移ったことをきっかけとして三殿の神祇は温明殿に遷されました。温明殿は賢所や内侍が奉仕したことから内侍所と呼ばれます。
鎌倉時代以降は武具などを置いていた春興殿に遷されるなど奉安場所は何度か遷されてきましたが、明治時代には東京の宮城に遷され、一時赤坂の仮御所に置かれた後、明治22年に宮中三殿としての賢所に奉安されるようになり現在に至ります。明治以降の八咫鏡の形代の奉安地や賢所ができるまでの歴史についてはこちらのページで紹介しております。さらに詳しく知りたい方は是非ご覧ください。
八尺瓊勾玉と草薙剣の形代が現在の宮中剣璽の間に奉安されるまで
こちらも平安時代以降は清涼殿の夜御殿という天皇のお休みになる場所に奉安されていました。これらは常に天皇を守護するものと考えられるようになり、天皇の行幸の際にも内侍がこれを捧げ持って移動していました。ただし、この剣璽動座は第二次世界大戦以降はGHQにより中止されており、これが改めて行われるようになったのは昭和49年のことで、以降は天皇の神宮参拝に際して随行することになった。
剣璽は宝鏡と違い皇位の継承に際して天皇陛下に引き継がれており、現在も剣璽渡御の儀において受け取ることになっています。このように引き継がれた八尺瓊勾玉と草薙剣は剣璽の間という天皇陛下の寝室の隣の部屋に奉安されています。