我が国には神武天皇による建国以来、天皇という存在が国を治めており、日本国憲法下でも象徴として我が国を導いてくださっています。歴代の天皇の呼び方については記紀を見ると様々な方法があり、時代によって様々な方法で呼称されてきました。
今回は天皇の呼び方の起源と歴史、和風諡号・漢風諡号や追号といった尊称について紹介していきます。
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目次
御在位中の天皇は天皇陛下、今上陛下とお呼びする
天皇は各時代に原則おひとりしかいらっしゃらないため、天皇陛下と言う場合はその御代の天皇を指します。第124代昭和天皇は崩御されてから元号を用いて「昭和天皇」という呼称が贈られたのであり、御在位中から○○天皇と呼ぶことは失礼にあたるため、敬称をつけて天皇陛下や現在のという意味の今上という言葉を用いてお呼びすることが相応しいと言えます。
また、崩御されてから数週間の間はご遺体は皇居内の殯宮に安置され、追号報告の儀にて追号が贈られます。この儀式が行われるまでは追号のない状態であり、崩御されてから追号が贈られるまでの間は大行天皇とお呼びします。
上古の天皇は大王と呼ばれていた~「ワカタケル大王」と「雄略天皇」~
5世紀後半の稲荷山古墳出土の鉄剣銘には「ワカタケル大王」という名が見え、これは第21代雄略天皇にあたると考えられています。
このことから上古において天皇は大王と呼ばれていたことが分かります。この頃の日本は単独の政権が国土を治めていたのではなく、いくつかのクニが連合して国土を治めていたため、王の中の王ということで大王という呼称が用いられていました。
ワカタケル大王と呼称されていた人物を雄略天皇と記述しているように、上古の大王についても天皇という呼称を用いるのは日本書紀編纂の時代の呼び方を過去の天皇にも適用したからと考えられます。
天皇という尊称が用いられるようになったのは天武天皇・持統天皇の時代か
天皇という尊称が用いられるようになったのは推古天皇の御代または天武天皇・持統天皇の御代からではないかと言われています。
このうち定説となっているのは天武天皇・持統天皇の御代とする説で、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡からは「天皇聚露弘…」という木簡が発見されており、ここに「丁丑年」という年号が記載されていることから、天皇とは天武天皇もしくは持統天皇を指すとされていることが根拠となっています。
推古天皇の御代とする説については『日本書紀』記載の聖徳太子が遣隋使を派遣した際の国書に「東天皇敬白西皇帝」とあることが根拠とされていますが、『日本書紀』編纂時に加えられたものではないかという主張がされており、天皇という尊称が推古天皇の御代において用いられていたかは明らかではありません。
天皇(すめらみこと)という尊称の読み方は「統べる」「澄める」からきたという説
古代においては天皇は「すめらみこと」と発音されており、現在神社で奏上されている祝詞でも同様に天皇と書いて「すめらみこと」と発音されています。「すめらみこと」という語の由来については以下のような説があります。
統べる尊:統治する尊貴なお方という意味 しかし上代特殊仮名遣いからは成り立たないという批判がある
澄める尊:澄みわたった清浄なお方という意味で日本を統治する天皇の清浄性を表した言葉
諱・和風諡号・漢風諡号・追号の違い
天皇の呼び方には諱・和風諡号・漢風諡号・追号を用いる方法などいくつかの種類があり、時代によって異なる方法が用いられてきました。
まずは、それぞれの呼び方について神武天皇の例を挙げながら確認してみます。
・諱:本名のこと。古代では亡くなられた貴人を名前で呼ぶことは避ける風習があった。忌み名の意味。 ex.彦火火出見
・和風諡号:古代において用いられた生前の事績を称えてつけられるもの。 ex.神倭伊波礼比古命
・漢風諡号:古代中国の風習を参考に取り入れられたもので、生前の事績を称えて漢字2字を用いてつけられるもの ex.神武天皇
・追号:御在所、山稜、元号の名前などから送られる称号
諡号と追号の違いについては、諡号が天皇の事績や徳を称えて贈られるものであるのに対して、追号は生前に所縁のあったものの名前をとって贈られるものであるという点が異なります。
古事記・日本書紀の時代には和風諡号を用いて「命」と呼び、8世紀末には淡海三船が唐を参考にして漢風諡号を用いた
古事記や日本書紀が完成した8世紀前半においては天皇は「○○命」という和風諡号を用いて呼称されています。神社においても神武天皇を神倭伊波礼比古命と表記したり、応神天皇を品陀別命・誉田別命と表記することがありますのでメジャーではありませんが見覚えがあるものもあるのではないでしょうか。この時代には漢風諡号は用いられることはなかったため、現在最もよく用られている漢風諡号は記紀の時代よりも後につけられたということです。
8世紀末の孝謙天皇の御代になると唐の文化が積極的に取り入れられるようになり、天智天皇の子孫にあたる淡海三船という学者に命じて歴代の天皇の諡号を付け直させました。
これにより平安時代以降には和風諡号が用いられることはなくなり、追号が使われることが多くなっていきます。
神武天皇という漢風諡号を用いた呼び方の由来は中国の哲学書『易経』にあるとする説
孝謙天皇のもとで淡海三船は過去の天皇の諡号を付け直しましたが、神武天皇の名前は中国の哲学書である『易経』から採られたとする説があります。
『易経』には「聰明睿知、神武にして殺さざるものか」という文言があり、「聡明で叡智を備えた、神のように力を直接行使せずとも治めることのできる武勇によって殺さない者」ということを表します。
院政期以降は「院」を用いた追号が贈られるようになる
平安時代後期になると天皇が譲位した後、上皇として実権を握る院政が行われていました。この時、上皇は院と呼ばれており、多くの場合は譲位後の離宮や御所、法皇となった際の出家先の名からとられた院号を用いて「○○院」と呼ばれていました。
例えば嵯峨天皇はもともと離宮として造られた嵯峨院に譲位後移ったことから贈られた追号で、花山天皇は上皇となった後に出家して花山寺に入り、法皇として実権を握ったことから花山天皇という追号が贈られました。
明治28年の天皇号の奉呈と大正15年の「天皇御追號中院號ハ之ヲ省クノ件」
明治28年には歴代すべてに「天皇」という尊称を贈り、「○○院」と呼称されていた天皇については嵯峨院天皇や花山院天皇などのように「○○院天皇」と呼ばれるようになりました。
大正15年「天皇御追號中院號ハ之ヲ省クノ件」において「院は上皇の事であり、院と天皇がお一人同時に存在することはあり得ないため併称することは矛盾している」という答申があり、これを摂政として大正天皇を助けていらっしゃった昭和天皇が裁可されました。以降は花山院天皇が花山天皇となったように院の文字は省いて呼称されるようになりました。
江戸幕末の光格天皇と近現代の一世一元の制と「御歴代天皇ノ御追号ノ読法通牒ノ件」
平安時代から江戸時代中頃までは50代以上にわたって院号が贈られていましたが、幕末には兼仁上皇が崩御されると光格天皇という追号が贈られ、875年ぶりに天皇号に戻りました。これは第120代仁孝天皇の御発意によるものです。
明治時代になると「改元の詔書」に「今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す」と記されます。これを制度化するために、旧皇室典範12条では「踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ」と定め、「登極令」では「天皇踐祚ノ後ハ直ニ元號ヲ改ム」と定めます。ここから一世一元の制がとられるようになり、この制度が現在も続いています。
昭和15年には「御歴代天皇ノ御追号ノ読法通牒ノ件」が通達され読み方が複数あった天皇の子呼称を様々な文献を調査することで統一されました。