日本にはもともと神道という自然崇拝と祖先崇拝を基盤とした独自の習俗が根付いていましたが、6世紀の仏教公伝以来、神身離脱説や護法善神説によって神道と仏教は接近を見せました。平安時代になると法華経の理論を用いて本地垂迹説が展開されていき以降の神道説に大きな影響を及ぼしました。現在、神社とお寺の違いを理解できていない人が多い中、神道と仏教の関係について広めることは重要だということで今回は神仏習合の歴史について紹介します。
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目次
地方で広まった神身離脱説と神宮寺の創建『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』
仏教ではこの世のあらゆる存在は真理を知らないために迷い苦しみ、輪廻を繰り返して苦悩し続けると考えています。日本の神々も輪廻の中で苦しむ存在でこれを仏教によって救済しなければならないとするのが神身離脱説で主に地方から広まっていきました。
以下、神身離脱説に関する史料として『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』の一部を紹介します。
『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』
天平宝字七年十二月二十日神社の東に井有り、道場に於て満願禅師居住す、敬い阿弥陀丈六を造る。時に人在り、神託りて云ふ「我は多度の神なり、吾久却を経て重き罪を作し、神道の報いを受く。今冀わくば永く神身を離れんがため三宝に帰依せんことを欲す。茲に満願禅師神坐す山の南の辺を刈掃き、小堂及び神御像を造立す。号して多度大菩薩と称す。」
以上のように多度の神は「長い時間をかけて重い罪を犯してしまったために神道の報いを受け苦しんでおり、神としての身を離れるために仏教に帰依したいと思う」と満願禅師に対して託宣したとされています。
多度大社の例のように神々を解脱に導くために神宮寺を造立するということが地方を中心に行われました。
中央では護法善神説をもとに神仏の接近が起こった『金光明最勝王経』『続日本紀』
地方で広まった神身離脱説に対して中央では護法善神説が唱えられます。
護法善神とはもともと古代インドの梵天(ブラフマン)や帝釈天(インドラ)などの神々を仏教側が教義に組み入れるために考えた教説で、日本でも同様に神道の神々が組み入れられていきました。
この説では日本の神々は仏教を尊重し守護する存在と解釈されており、仏教経典『金光明最勝王経』では本経を公宣読誦する国王があればその国土、人民を持国天・広目天・増長天・多聞天の四天王が守護すると記述されており、仏教においても神が四方を守護する役割を果たしていることが伺えます。
また、神道と仏教の関係については『続日本紀』から称徳天皇重祚の際の大嘗祭の記述を紹介します。
『続日本紀』称徳天皇条
神等をは三宝より離ちて触れぬ物ぞと人の念ひて在り、然るに経を見まつれば仏の御宝を護りまつり尊びまつるは諸の神たちにいましけり。故に是を以て出家人も白衣も相雑りて供奉るに豈に障ることは在らずと念ひてなも本忌しがごとくは忌まずして此の大嘗は聞しめすと
菩薩戒を授かった出家者である称徳天皇は三宝、次に天社や国社に仕え、親王・百・官人・天下の人民を慈愛すると述べた上で、以上のように「神事では三宝を避けるべきとの人々もいるが、神々が仏法を守護しており、出家人も在俗者も一緒に大嘗祭に参列しても問題がない」としています。
このように中央では護法善神説をもとに神道と仏教の接近が進み、寺院鎮守神として法隆寺には龍田神社、東大寺には宇佐八幡宮がされました。
本地垂迹説とは「本地」である仏が日本の神という姿「垂迹」として現れたとする理論
平安時代になると本地垂迹説が唱えられるようになり神仏習合説は新たな展開を見せます。
本地垂迹説とは仏というのが本来の姿「本地」であり、日本の神々は仏が人々を救済するための「垂迹」すなわち仮の姿であるということです。したがって、神は仏と同体ということです。
法華経(妙法蓮華経)の教えでは迹門と本門について述べ、釈尊の具体的な救済活動の迹とブッダの永遠性を説く
法華経は正式名称を妙法蓮華経といい、「正しい教えはまるで蓮の花のようである」ということを意味します。仏教では死後浄土に生まれ変わることを目指しますが、法華経では蓮という汚い泥の中から咲く美しい花のように現世にも悟りの道があるということを示しています。
『妙法蓮華経』は鳩摩羅什が訳したもので28品の章節で構成されており前半14品を迹門、後半14品を本門に分けることができます。
迹門とは出世した仏が衆生を導くために本地より迹を垂れたとする部分であり、釈尊の具体的な救済活動の迹を説きます。この部分では仏教の真の教えは一つであり、小乗・大乗というのはただの方便でどちらの方法によっても成仏できるという一仏乗の教えを説きます。
本門とは釈尊が悟りを開いたのは菩提樹の下ではなく遥か昔のことであり、永遠に救済を続けているといして、釈尊(ブッダ)の永遠性を説きます。
法華経で説かれた久遠実成(法身・色身)の教えから発展した本地垂迹説
前段落で紹介した「釈尊が悟りを開いたのは菩提樹の下ではなく遥か昔のことであり、永遠に救済を続けている」という部分は久遠実成と言われる考え方で、これが本地垂迹説の展開につながりました。
釈尊の生まれてから入滅するまでの事績(歴史上のブッダ)は永遠のブッダによる衆生救済のための姿でるということで、永遠のブッダの体には法身と色身という二つの領域があるということを示しています。法身とはブッダの本体ともいえる部分で、色身とはガウタマ・シッダールタという人間の姿です。
このような理論を用いて平安中期からは熊野神は阿弥陀如来、伊勢神宮は大日如来など仏と神道の神を具体的に結び付けて考えるようになり、熊野権現・山王権現など権現号を用いる神社も現れました。
また、真言宗の高野山金剛峰寺は丹生都比売神社と、天台宗の比叡山延暦寺は日吉大社と関係を持ち、それぞれ両部神道・山王神道という独自の神道説を唱えることで仏教の立場から神道を解釈することがすすめられ、伊勢神道の他 吉田神道などの中世以降の多くの神道説に影響を与えました。