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目次
まずは「神道」というのは何なのか、検討する必要がある
神道とは我が国に古来から根付き、常に我が国と共に存在する歴史のあるものですが、明確な定義づけがされていない曖昧なものでもあります。
なぜ曖昧なものになってしまっているか。それは神道は「祖霊崇拝」「自然崇拝」が発展したもので、長い時間をかけてゆっくりと形を変えてきたものであるからです。緩やかに形成されていったことから、どこからを神道と呼んでいいのかが定められていないのです。
したがって、神道の成立期を検討するにはまず「神道」という言葉の定義から始めなければならず、たいへん大掛かりな作業となっています。
そこで、今回は神道という言葉の定義を模索しながら、我が国の歴史を参考にしつつ神道の成立期についての有力説を紹介していきます。
第一説 神道の成立期は縄文後期から弥生時代か
まだ我が国が一つにまとまっていない頃、各地では様々な独自の祭祀が行われていました。
この時は現在の神社のような建物は用意されておらず、岩や樹などの自然物を神が宿るモノとして考え、そこを神籬とか磐境と呼んで祭場としていました。
このような祭祀が行われていた証拠として三輪山(大神神社)と沖ノ島(宗像大社)が挙げられます。
大神神社は日本最古の神社と言われたおり、社殿を持たず原始の姿を現代に残す大変貴重な神社の一つです。御神体は三輪山という山自体で、三輪山には多くの祭場の址が残されています。
宗像大社沖津宮の鎮座する沖ノ島は昭和29年(1954)~46年(1971)に発掘調査が行われ、約8万点もの古代の祭祀を裏付ける銅鏡・鉄製武器などが出土しています。
また、弥生時代とする説では稲作文化や金属文化の渡来や渡来人の集団移住によって大陸からの影響を受けて神道が成立したという意見もあります。
これらの時期に行われていた祭祀は原始的なもので、神道と呼ぶにはあまりにも未熟であるという見識が多く、神道の成立期の説としてはマイナーです。
第二説 神道の成立期は7~8世紀(奈良時代)ごろか
時代が進み、律(現代でいう刑法)と令(律以外の基本法)によって政治が行われる時代、いわゆる律令体制下になった時、大きな転換期を迎えます。
この頃には神祇令という祭祀について定めた法に従って神祇官が祭祀を行うようになります。
神祇令には祈年祭、月次祭、新嘗祭をはじめとする現代にもつながる多くの祭祀が定められており、神祇官が全国の祝部(現代でいう神主)を中央に集め、幣帛を配って神社に奉らせるという中央集権的な方法によって全国の神社を統括していきました。
神道という語が用いられるようになったのもがこの時期からで、日本書紀などで記述が確認できます。
神道という語の初見は蕃神(仏教)との比較としてであり、外来の観念である仏教の伝来と共に自己認識として神道が成立したということも言えます。
以上のように天皇を長とする中央集権的体制下での祭祀の開始を神道の成立とする説が有力説とされていましたが、これに対して律令制度というのは理念が優先したものであって平安期の祭司制度と比べると中身は全く足りないものであったとして否定する意見もあります。
第三説 神道の成立期は8~9世紀(平安初期~中期)ごろか
平安時代になると律令体制下の制度に不具合が生じてきます。
それは全国の祝部が中央の神祇官に幣帛を受け取りに行かなくなったという問題です。確かに朝廷のある近畿あたりから離れたところに住んでいる祝部にとって毎回中央まで赴かなくてはならないのは大変な負担であり、中央集権制から地方分権制への改革の必要に迫られたのです。
そこで、全国の祝部が神祇官に行き幣帛を賜るという制度から、それぞれの国にある国府(国衙)に行き国司から幣帛を賜るという方法に転換していきます。
ここから官幣社と国幣社という概念が生まれました。
官幣社とは神祇官から直接幣帛を賜る神社
国幣社とは諸国の国司から幣帛を賜る神社
を言います。
また、神階制という全国の神に階位を授与する制度がつくられました。
この制度では神々を正一位・従一位・正二位・従二位・正三位・従三位......(以下省略)というように分けていました。しかし、そもそも人間が神にランクをつけるということ自体が不適切であり曖昧なものになりかねず、実際には形だけのものに終わりました。
他には名神奉幣制という、特に霊験に優れているとして選ばれた神々を国家の守護神として祀る制度が定められ延喜式内社のうち1割(300社)程度が名神大社とされました。これにより、国家と諸社の結びつきが強固なものになり、国家祭祀としての位置づけを盤石のものにしたと考えられます。
さらに、平安時代になると天皇の近臣が力を持ち始め、天皇の力が相対的に弱まっていきます。これにより国家祭祀に氏神祭祀が入り込み、藤原氏の氏神である春日大社での春日祭などが公祭として扱われるようになっていきました。
ここまでに紹介した制度は奈良時代の律令祭祀の延長線上にあるもので、理念が先走っていた制度に中身が伴ってより国家的な祭祀が行われるようになったことを表しています。
第四説 神道の成立期は11~12世紀(院政期)頃か
11世紀~鎌倉幕府成立前になると上皇による政治(院政)が行われるようになります。
この時期には一宮制・二十二社奉幣制が成立します。
一宮制とは各国の国司が各神社への奉幣の際に国内の有力神社を最上位から一宮・二宮・三宮と定め参列を行った制度で、11世紀~12世紀にかけて国ごとに成立していきました。
二十二社奉幣制とは豊穣祈願や祈雨・祈晴など国家の一大事に際して、奉幣を行う対象となる神社を全国から定めたもので、神国意識が侵透していたことが読み取れます。
また、神道と仏教の融合、いわゆる神仏習合が顕著に見られるようになり、神宮寺や神前読経が行われるようになりました。もともと仏教は外来のものとして扱われていましたが、やがて国家はこれまで行われてきた伝統的な祭祀に加えて仏教を取り入れて神威を高めようと考えるようになりました。これらの体系を顕密体制と呼び、この時期に国家祭祀に大きな転換があったことに間違いはありません。
これらの神道思想の変化をもって神道の成立とする説も有力とされていますが、神道意識というのは近代または現代的感覚に左右されるものであるため、思想の観点から神道の成立期を求めようとすることは正しくないのではないかとする意見も多くあります。
第五説 神道の成立期は15世紀(吉田神道成立期)頃か
顕密体制が崩れていく中、密教的要素を取り入れた吉田神道が生まれ、江戸時代まで大きな影響を持ち続けていくことになります。吉田神道では我が国は神国であり神道は森羅万象の根源で、仏教・儒教・道教を積極的に採用し独自の神道説を説いていました。
これらの思想は知識人だけでなく、民衆にも広く伝えられ多くの人に支持されることになります。
神道の思想が明確化され、さらに民衆にも思想が広まったことで神道というものが確立されたと考えることができ、これは第四説と同様に語義解釈重視の説明となっています。
【結論】神道をどう定義するか
まとめ
神道の根本は祭祀にあるとして理解するとすれば律令体制下の神祇体系の中にある祈年祭・新嘗祭などから神道的祭祀の起源があったということができるため第二説の律令体制期がとられます。
神道の根本は神道の思想にあるとすれば第四説の院政期や第五説の吉田神道成立期がが神道の成立期ということになります。