※歴代天皇の一覧を完成させた後は、それぞれの天皇の詳しい説明を投稿していきますので、「この程度の説明じゃ満足できないよ」という人はもうしばらくお待ちください。
※だいたい古墳時代までは記紀を根拠としており、内容が薄く,現実的でない箇所もあります。
古事記については超現代語訳『古事記』をご覧ください。
※天皇は崩御後に諡号や追号が撰進されますが、今回は便宜上生前から諡号・追号で表記する場合があります。
スポンサーリンク
目次
初代神武天皇
神武天皇などについては古事記や日本書紀が手掛かりとなります。
そもそも神武天皇が実在していたかどうかも議論の対象となっていますが、それは我々が思い描いている神武天皇が実際(実在)の神武天皇と同一であるかという問題にすぎず、天皇には初代がいるということは覆しようのない事実であり、その初代の天皇の崩御後に諡号(高貴さや具体的な高徳を表わした美称を死後に贈るもの)をつけたまでのことと考えます。
神武天皇の血統
天孫降臨の際に瓊瓊杵尊が高千穂に降り、木花之佐久夜毘売との間に彦火火出見尊を儲けます。
彦火火出見尊は豊玉姫命との間に鸕鶿草葺不合尊を儲け、鸕鶿草葺不合尊は玉依姫との間に神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇)を儲けました。
「こんな漢字ばっかり読めないよ」という人は、とりあえず 神武天皇は神の血筋を引き継いでいるんだぁと思っておいてください!
神武天皇の功績
神倭伊波礼毘古命は各地の荒ぶる神や豪族を平定するために討伐を始めます。
天孫降臨の話は九州を舞台としており、神武天皇の討伐も九州を始点として東へ向かいます。
神倭伊波礼毘古命は兄の死など数々の試練を乗り越えて橿原に地に都を構え、初代天皇として即位しました。現在、橿原の地には神武天皇を祀る橿原神宮が鎮座しています。
第2代~第9代天皇 欠史八代
第2代綏靖天皇・第3代安寧天皇・第4代懿徳天皇・第5代孝昭天皇・第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇・第8代孝元天皇・第9代開化天皇までは歴史書に名前が登場するのみで功績についてはほとんど記述がありません。
そのため、実在性が疑われており欠史八代と呼びます。
第10代崇神天皇
崇神天皇と疫病
崇神天皇の御代には人口のおよそ半分が亡くなる疫病が流行しました。
崇神天皇が神床(神託を受けるための部屋)に入ると、大物主神が現れ大物主神の子孫にあたる大田田根子を三輪山の祭司とすれば疫病は治まるだろうと話し、崇神天皇が言うとおりにすると疫病は治まったとされています。
崇神天皇と三種の神器
天孫降臨の際に五大神勅(三大神勅)が下されました。
そのうちの1つである宝鏡奉斎の神勅(同床共殿の神勅)は「三種の神器は宮中で保管しなさい」という内容であり、この神勅通り宮中で祀られてきました。
しかし、崇神天皇は天照大御神の宿る三種の神器の強い力に畏れを抱き、八咫鏡を遷すことに決めました。この時に、八咫鏡の鎮座地を探したのが崇神天皇の娘である豊鍬入姫命です。
豊鍬入姫命は笠縫邑や籠神社に八咫鏡を祀ったとされ、その後第11代垂仁天皇の御代に垂仁天皇の娘である倭姫命に託され、伊勢の神宮に祀られました。
崇神天皇と四道将軍
崇神天皇は各地の豪族を治めるために大毘古命・建沼河別命・日子坐王を平定に向かわせました。この三人と孝霊天皇の御代に派遣された大吉備津日子命を合わせて四道将軍と呼びます。
神武天皇が天皇による統治の礎を築き、崇神天皇が各地を平定してヤマト政権の基盤を築いたと言えます。
この時、崇神天皇は各地に国造を設置し
弓端の調:男性が捕らえた動物を納める
手末の調:女性が紡いだ糸や織物を納める
という初の徴税を始めました。
スポンサーリンク
第11代垂仁天皇
崇神天皇と御間城姫(御真津姫命)との間に生まれたのが垂仁天皇です。
垂仁天皇の皇后である狭穂姫命(沙本毘売命)の兄である狭穂彦王(沙本毘古王)が反乱を起こすなどひと悶着ありましたが、次の皇后である日葉酢媛命との間に後の景行天皇を儲けます。
第12代景行天皇
景行天皇には播磨稲日大郎姫との間に大碓皇子や小碓尊、
崇神天皇の孫とされる八坂入媛命との間に稚足彦尊を儲けました。
景行天皇と日本武尊
景行天皇は小碓尊に九州にいる熊襲建兄弟の討伐に向かわせると、見事 熊襲建の討伐を成功させた小碓尊は日本武尊という名をもらいました。
大和に帰った日本武尊はそのまま東征に向かわされ、その途中に伊勢で草薙剣を授かります。その後、数々の試練を乗り越え、尾張の地の宮簀媛と結婚し草薙剣を置いて伊吹山に向かいました。
しかし、伊吹山につくと日本武尊は体調を崩し能褒野(現在の三重県亀山市)で亡くなりました。
すると日本武尊の御霊が白鳥となって飛び立ち、大和琴弾原や河内古市に降り立ち、その地に陵墓がつくられました。
景行天皇は日本武尊の西国遠征と東国遠征の際に国造を設置したとされています。
第13代成務天皇
景行天皇は八坂入媛命との間に生まれた稚足彦尊が続いて皇位を継承し、成務天皇が誕生しました。
成務天皇は武内宿禰を大臣とし、日本初の行政区画を定めます。
諸国を山や川を境界にして国郡と県邑に分け、それぞれに国造と稲置を設置しました。
第14代仲哀天皇
成務天皇には和訶奴気王という子がいましたが、次期天皇には日本武尊の子を即位させ仲哀天皇が誕生しました。
これまでの皇位継承順でいえば和訶奴気王が皇位を継承するはずであり、いわば屈折ともいえる状況となっています。これは武勇に優れる日本武尊の功績を無視することができなかったのではないかと考えられます。
三韓征伐
仲哀天皇は気長足姫尊(神功皇后)を后とします。
ある時、神功皇后が神憑りし「朝鮮半島をとるべき」という旨の神託を受けたが、仲哀天皇はこれを信じませんでした。これに激怒した神は仲哀天皇を急死させ、代わって神功皇后が朝鮮半島に向かい新羅・高句麗・百済に朝貢を約束させました。
この時、神功皇后は誉田別尊を身ごもっていました。
スポンサーリンク
第15代応神天皇
神功皇后が三韓征伐の帰途に出産した誉田別尊こそが後の応神天皇であり、誉田別尊が成長するまでの間は神功皇后が政事を執り行っており、大正時代までは一部で神功皇后が初代の女帝とも考えられていましたが、現在は摂政として政事を執り行っていたと考えるのが一般的です。
応神天皇が即位すると朝鮮半島との関係強化に努め、この時代には弓月君(秦氏の祖)など多くの渡来人がやってきました。
第16代仁徳天皇
応神天皇には多くの子がいましたが、仲姫命との間に生まれた大鷦鷯尊が即位し後の仁徳天皇が誕生しました。
仁徳天皇は日本初の大規模な工事として大阪平野の開発と治水工事を行いました。
また、高い山に登り国を見渡すと、どの家からも炊飯の煙が上がっておらず貧しい生活をしていることが見受けられました。
これを見た仁徳天皇は三年間もの間 徴税を免除し自身は宮廷の雨漏りすら直さず倹約に努めました。
第17代履中天皇・第18代反正天皇
仁徳天皇は磐之媛との間に去来穂別尊・住吉仲皇子・瑞歯別皇子・雄朝津間稚子宿禰尊を儲けました。
仁徳天皇が皇太子を去来穂別尊と定めた後、次男の住吉仲皇子が去来穂別尊の婚約者を自らが皇太子だと偽ってしまいました。この事実が広まることを恐れた住吉仲皇子は去来穂別尊の館に火を放ち隠ぺいしようとしましたが、去来穂別尊は何とか館から脱出し 謀反を企てた住吉仲皇子は三男の瑞歯別皇子に殺害されました。
こうして長男の去来穂別尊が即位し履中天皇となりました。
履中天皇は履中天皇の娘である草香幡梭皇女を后としましたが、皇太子が決まる前に崩御し、弟の瑞歯別皇子が即位し反正天皇となりました。
スポンサーリンク
第19代允恭天皇・第20代安康天皇
反正天皇は皇族の后を持たなかったため、皇太子が決まらず 弟の雄朝津間稚子宿禰尊が即位し允恭天皇となりました。
允恭天皇は氏姓制度の改革を行うために氏族を集め、盟神探湯を行って氏姓を正しました。
盟神探湯とは
盟神探湯とは熱湯に手を入れ、手がただれるか否かで吉凶や成否を判断する誓約の一種のことです。
允恭天皇は応神天皇の孫にあたる忍坂大中姫との間に木梨軽皇子・穴穂皇子・大泊瀬幼武皇子を儲けました。
一時は木梨軽皇子が皇太子とされましたが、妹との近親相姦が明るみになってしまい、允恭天皇の崩御後も支持を得られないでいたところ、弟の穴穂皇子が即位することになりました。
穴穂皇子は安康天皇と呼ばれ、中蒂姫を皇后にしましたが、その連れ子である眉輪王によって暗殺されてしまいました。
第21代雄略天皇・第22代清寧天皇
先代の安康天皇は皇太子を指名する前に暗殺されてしまったため後継者が決まっていませんでした。そこで安康天皇の弟にあたる大泊瀬幼武皇子は従兄弟にあたる市辺押磐皇子などの競争相手をすべて謀殺し自らが皇位に就き雄略天皇となりました。
埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳に「獲加多支鹵大王」と書かれた鉄刀・鉄剣が出土しています。記紀では雄略天皇を「ワカタケル(大長谷若建・大泊瀬幼武)」としており、雄略天皇の時代には関東から九州までの広い範囲に勢力を拡大していたことが分かります。
雄略天皇は葛城韓媛を妃として白髪皇子を儲けました。
白髪皇子は名前の通り白髪で霊威を感じて皇太子とされ、その後即位し第22代清寧天皇となりました。
第23代顕宗天皇・第24代仁賢天皇
清寧天皇は皇后も子もいなかったため、雄略天皇が殺害した市辺押磐皇子の子である億計王と弘計王に迎えられました。
清寧天皇の崩御後、この兄弟は皇位を譲り合いますが結局弟の弘計王が即位し第23代顕宗天皇となりました。
顕宗天皇は父を殺した雄略天皇に恨みを持っており 雄略天皇の陵墓を破壊しようとしますが、兄の 億計王が 破壊を実行すれば顕宗天皇は後に非難されてしまうと説いて阻止したと伝えられています。
顕宗天皇が崩御した後は、兄が第24代仁賢天皇として即位しました。
第25代武烈天皇
仁賢天皇は雄略天皇の娘である春日大娘を妃とし、小泊瀬稚鷦鷯尊を儲けました。
ここで雄略天皇の娘を妃としたのは第19代允恭天皇の子孫が絶え、允恭天皇の兄にあたる第17代履中天皇の子孫の系図に進んだことで、直系の継承ではなくなったことによる血のつながりの弱まりを考慮し、允恭天皇の孫にあたる春日大娘皇女を妃に据え 天皇の正当性を強化するためであると考えられます。
仁賢天皇の崩御後は即位し武烈天皇と呼ばれます。
武烈天皇の功績については古事記ではほとんど記述がありませんが、日本書紀では極悪非道な天皇として記述されています。
武烈天皇は先代の仁賢天皇の時と同じ理由で雄略天皇の娘である春日娘子を妃としました。
しかし、武烈天皇は子宝に恵まれず、近親に皇位を継ぐことができる者もいなかったため皇室断絶の危機に瀕します。ここで越国三国(現在の福井県)から第15代応神天皇の五世孫を連れてきて、継体天皇として即位させるのでした。
第26代継体天皇
応神天皇の子孫である継体天皇が誕生したものの、継体天皇は越国三国から当時の政治の中心地であった大和に移ろうとしませんでした。これはこれまでの天皇とは即位に至るまでの経緯が異なることで、大和には継体天皇に疑問を呈する派閥が力を持っていたのではないかと推測できます。
記紀では継体天皇の御代に筑紫国(現在の福岡県)の筑紫国造である磐井を攻める磐井の乱が起こったとされています。
磐井の乱は『記紀』では新羅に奪われた朝鮮半島南部の覇権を回復するために兵を送り、新羅に防衛を依頼された筑紫国造磐井が大和王権軍の進軍を阻んだとされており、大和王権軍の勝利に終わりました。
継体天皇は尾張目子娘子を妃として勾大兄皇子や檜隈高田皇子、仁賢天皇と春日大娘皇女の娘にあたる手白香皇女を妃として天国排開広庭天皇を儲けました。
第27代安閑天皇・第28代宣化天皇
勾大兄皇子が即位し安閑天皇が誕生しました。
これまでにいくつかの屯倉という直轄領が定められてきましたが、日本書紀では安閑天皇の御代には関東から九州まで多くの屯倉を設置したと言われており、全国に強い支配力を持っていたということが分かります。
記紀には安閑天皇の子に関する記述はなく、同母弟の檜隈高田皇子が即位し宣化天皇が誕生します。
宣化天皇の御代(538年)には仏教が伝来したと言われています。
スポンサーリンク
第29代欽明天皇
宣化天皇が崩御すると欽明天皇が誕生します。
欽明天皇は大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目を大臣としました。
また、552年には朝鮮半島の百済の聖明王から仏具や経典が送られました。
これをきっかけに崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が起こります。
欽明天皇は蘇我稲目に仏教の受容を薦められ、稲目に仏像の崇拝を許しました。すると 疫病が流行りだし、天皇の宮殿も火事に遭ったとされています。
第30代敏達天皇
欽明天皇の崩御後は子の渟中倉太珠敷尊が即位し、敏達天皇が誕生します。
敏達天皇は物部守屋の働きかけにより仏教を禁止し、蘇我馬子らが建てた仏殿は焼き払われました。
第31代用明天皇
敏達天皇には皇太子はおらず、異母弟の用明天皇が誕生します。
用明天皇は欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛の子で、初の蘇我系の天皇が誕生したのです。
用明天皇は やはり仏教を受容する態度を示しており、初の仏教容認派の天皇にもなりました。
これに対して物部氏は蘇我氏に不満を露わにし対立は激化し、結局 蘇我馬子は物部尾輿を殺害したことで物部氏は没落。崇仏論争は終焉を向かえました。
第32代崇峻天皇
崇峻天皇は欽明天皇と蘇我稲目の娘で用明天皇の母である堅塩媛とは姉妹にあたる小姉君との間に生まれました。
この頃にはすでに蘇我馬子が実権を握っていました。これに対して、崇峻天皇は不満を募らせていると、これを察知した蘇我馬子は崇峻天皇を殺害してしまったのです。
しかし、蘇我馬子が処罰された形跡はなく、それだけ蘇我氏が絶大な権力を有していたことが分かります。
第33代推古天皇
崇峻天皇が暗殺されると堅塩媛を母に持つ推古天皇(用明天皇の同母妹、崇峻天皇の異母姉)が即位し、初の女帝が誕生しました。
女帝誕生の名目としては皇位を巡る争いを治めるためとされていますが、実際のところは蘇我氏と近い位置にある厩戸王(聖徳太子)を皇太子に就け、事実上の摂政として政治を行わせるためだったと言えます。
厩戸王は蘇我馬子と協力して政治を行い、遣隋使の派遣や冠位十二階、憲法十七条を制定しました。
次のページへ
スポンサーリンク