大学生の時にアルバイト先で知り合ったネパール出身の友人が日本でカレーライスを食べる時に米とルーを分けて盛り付けるということに疑問を感じていました。たしかに口に運ぶときには米をルーに絡めて食べるので分けて盛る勢力がここまで強いというのは何か日本人の性質と関係する理由があるのではないかと考えました。
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カレーライスをライスとルーに分けて盛るのも牛丼屋に定食があるのもおかしいというネパールの友人
その友人は日本の文化に関心があり、ある程度の神道についての知識を有しています。仲良くなり始めた時に話したのは海外の寺院は黄金に輝く装飾を備えた優美な姿の建築物が多いのに対して日本の神社は悪く言えば地味なものが多く驚いたといいます。ここでその友人が慌てて、木が持つ本来の温かさを活用した自然に溶け込むような建築物であるということを付け加えていていました。これをきっかけに海外の人が日本の文化をどのように感じとるのかということに興味を持ち、さらに仲が深まっていったことを覚えています。
私のアルバイト先は自由に好きな賄いを作って良い緩い飲食店で、ある時その友人は祖国の料理をふるまってくれると言います。そこで作ってくれたのがカレーだったのですが盛り付ける際に豪快にご飯の上にかける様子を見て、私は「ああこの人は米の上にルーをかける派なんだな」としか思いませんでしたが、食べ始めると友人は「すき家のカレーライスはカレーとライスが半分ずつになっているよね」と話し、確かにそうだなと思うとともに外国人の目の付け所は非常に面白いなと感心しました。ちなみにこれは後から聞いた話ですが、インドやネパールではチャパティという薄焼きのパンをつけてカレーを食べることが多く、ナンは少々高級なようです。また、カレーは食べ放題のお店が多く、ライスとカレーで食べる場合もチャパティやナンで食べる時と同様に別皿に盛られている場合が多いようです。
前置きが長くなりましたが、ここからやっと本題に入っていきます。
その外国人はすき家でのアルバイト経験があり「すき家は牛丼の店なのに定食もあるのはおかしい」ということを例に挙げて日本人は白い米が好きだということを説明しました。たしかにすき家は牛丼屋なのに白いご飯と牛肉を分けて盛り付けている定食があり、それを選ぶ人も多くいるということは不思議なことです。ここまで話してその時は結論を出せずに終わりましたが、神道を学び神社で奉仕するようになった今考え直してみると、やはり日本のカレーライスは神道の影響を受けているんだなと思わざるを得ません。
神道においては米は重要なものであり、清浄な状態に保つことが大事だからカレーライスは米とルーを分けて盛るのか
神道古典の一つである古事記・日本書紀には五穀の起源について語られており、またここには私たちが住む世界が形成されていくうえで重要な出来事である天孫降臨の条で下された五大神勅の中にも斎庭稲穂の神勅という稲作に関するものがあります。斎庭稲穂の神勅とは高天の原で行われていた稲作を邇邇芸命らに授けることを示したもので、これが我が国で稲作が盛んに行われていることの根拠であり、私たちが主食としている米はもともと天上世界から与えられたものであるということが理解できます。
少々難しい話になってしまいましたが、神社には米の他に米を原料としてつくられる酒が供えられていることを見たことがある人はずですし、映画『君の名は。』を見たことがある人は酒を神聖なものと捉えている場面を見たことがあるはずです。このように神道においては米というものが非常に重要です。さらに神社では「清浄」が重視されており、神社に行くとまず手水舎で身を清めることや祈祷祈願を行う際にはまず祓串で心身の罪・穢れを祓うということが行われています。
これらの事柄はカレーライスにも応用できることであり、神道において最も重要な神饌と考えられている米を汚すことを嫌うというのが私なりのカレーのルーと米を分けて盛り付ける理由です。