豆知識

【三条の教則とは】制定までの歴史・経緯や意味をわかりやすく解説 

明治時代には祭政一致の原則に基づく国づくりのため教導職(宣教師)が置かれました。

教導職らの教化指針となったのが三条教則で、これに基づいて神職だけでなく仏教関係者や一般からの有志など様々な者によって国内での思想統一が進められていきました。

たむ
今回は明治時代の神道教化の概要から三条教則が定められた経緯等をわかりやすく紹介していきます。

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王政復古の大号令と祭政一致の原則【諸事神武創業ノ始ニ原】

我が国は神武天皇による建国以来、神代から続く祭祀を基本に政治が行われており、祭祀と政治は切っても切り離せない存在でした。慶応3年(1867年)に新政府が国家運営の指針として発令した王政復古の大号令でも「諸事神武創業の始めに基づき」という記述があり、古代の政治理念を参考にした国づくりを目指すことが示されています。

明治2年7月の管制改革では神祇官が再興され太政官の上に置かれました。神祇官とは朝廷の祭祀を司るとともに、諸国の神社を総括する役職です。
古代の律令制において定められ、国家の最高機関である太政官と並び、重視されていました。神祇官は中世以降衰えましたが、明治時代には太政官の上位の機関として復興しました。

しかしながら、明治4年8月に神祇官は復興からわずか2年で廃止され、太政官所管の神祇省となります。

また、この頃は西欧文化を取り入れるにあたり、流入してくるキリスト教への対策として、神道だけでなく国民の根底部分からの国家体制強化の働きの必要性が説かれていました

そこで、より効率的な方法として、神道と仏教が合同で理想の国家体制の実現を目指すことにしました。これに併せ、所管官庁を民部省社寺掛、民部省寺院寮、大蔵省戸籍寮内社寺課と転々としていた仏教と合同で管理すべく、明治5年に教部省が設置され、神祇省は廃止されました。これにより、神道は法制上は他の宗教と同等の扱いとなったと言えます。

 

教導職(宣教師)による教化活動「三条教則と十一兼題・十七兼題(二十八兼題)」

教部省では宣教師というを設置し、これをのちに教導職と改めました。教導職には神職の他、僧侶など幅広い肩書を持つものが採用され、教化の指針として三条教則が定められました。
三条教則の内容は下記の通りです。

三条教則

第一条
敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 (神を敬い、国を愛すこと)

第二条
天理人道ヲ明ニスベキ事 (自然の理や道理に従い、人としての道を大事にすること)

第三条
皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事 (天皇陛下を尊ぶこと)

上記の通り、「敬神愛国」「天理人道の明示」「皇上奉戴」の3点を方針としています。

また、三条教則はあまりに抽象的すぎるということから、より具体的な内容として十一兼題十七兼題が設定され、併せて二十八兼題と呼ばれました。
それぞれの内容は下記の通りです。

十一兼題

神徳皇恩、人魂不死、天神造化、題幽分界、愛国、神祭、鎮魂、君臣、父子、夫婦、大祓

十七兼題

皇国国体、皇政一新、道不可変、制可随時、人異禽獣、不可不敬、不可不学、外国交際、権利義務、役心役形、政体各種、文明開化、律法沿革、国法民法、富国強兵、租税賦役、産物制物

ここまで紹介してきた三条教則、十一兼題、十七兼題の内容を確認すると神道的というより国民道徳的な内容が多いということがわかります。

 

【三条教則は本当に仏教側にとって不利な内容だったのか】

三条教則は祭政一致の原則、旧儀の復興を推し進める明治政府による教化項目であったことから仏教側からは批判が上がったとされています。

しかしながら、先にも述べた通り、三条教則は神道的というよりは国民道徳的な内容で、仏教の布教活動を阻害するような内容ではなかったはずです。
内容を詳しく観てみると、「敬神」という部分が引っかかるような気もしますが、インドで成立し、様々な文化・思想を受容しながら東上し、日本でも変化を続けて受け入れられたことを考えると、その布教活動を大きく阻害する内容ではなく、三条教則に基づく教化活動が仏教の布教を助ける部分もあったのではないかと考えます。

 

たむ
以上、今回は明治時代の教化方法と教導職と三条教則について紹介してきました。 神道教化の歴史について紹介したこちらの記事もぜひご覧ください。

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