古事記や日本書紀を含む神道古典において上古の天皇についての記述は曖昧なものが多く、初代神武天皇が橿原に宮を構えて即位した年を明確に特定することはできません。
明治時代になって新しい暦として神武天皇即位紀元(皇紀)が採用され、法令等のいくつかの公式文書もこれを用いて発されました。今回は神武天皇の即位が紀元前660年とされているのはなぜなのか皇紀とは何なのかについてお話していこうと思います。
スポンサーリンク
目次
皇紀とは明治政府が日本書紀をもとに定めた神武天皇即位を元年とした日本独自の暦
日本では元号や辛丑・庚子など十干十二支を組み合わせた方法で年を数えていました。明治時代になるとイエスの誕生を基準とした西暦、ムハンマドがメッカからメディナに移った年を基準とするヒジュラ暦など世界にはある年を基準として年数を重ねる暦があることを意識し、太陽暦を採用するとともに日本独自の方法で年を数えることが定められました。日本での基準年は日本建国の年、すなわち神武天皇即位の年があてられました。
日本の国史とみられている日本書紀には天皇の崩御した年齢や十干十二支を用いた年が記載されており、これをもとに神武天皇即位の年を計算しています。
現在、日常生活では皇紀を見ることはほとんどありませんが神社等では積極的に用られており2040年には皇紀2700年を迎えます。
なぜ日本書紀の編者は神武天皇即位の年を紀元前660年にしたか「古代の天皇が長生きな理由」
現在、日本書紀上の在位期間と考古学上の在位期間は朝鮮半島の歴史書との比較から第21代雄略天皇あたりからは一致しているのではと言われていますがそれ以前の天皇の存在した期間は特定できていません。したがって、現在神武天皇の年などは分かっておらず、また記紀の記述が曖昧なことを考えると当時の人々もこれを理解していなかったことが想像できます。
ではどのように神武天皇即位の年その他天皇に関する年を決めることになったかというと、中国の思想である讖緯説(辛酉革命説)をもちいました。
讖緯説・辛酉革命説とは中国の王朝革命に関する理論
讖緯説とは儒教思想に基づいた王朝交代や変乱を予言する説のことで辛酉革命や甲子革命などの考え方があります。
十干十二支によって年を記録していたというのは前述の通りですが、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の組み合わせを繰り返していくと60年に一度同じ十干と十二支を組み合わせた年にあたることになります。ちなみに、これが60歳を還暦という理由でもあります。
辛酉革命説では60年を一元、二十一元(1260年)を一蔀として、天帝の命令を受けて国を統治する者は一蔀のサイクルで交代させられると考えられています。
神武天皇が橿原に宮を構えて即位した際の記述をご覧ください。
『日本書紀』
辛酉年 春正月庚辰朔。天皇、橿原宮に於いて即帝位す。是歳を天皇元年と為す
このように神武天皇は辛酉の年に即位したと記述されています。
日本書紀が中国の思想に影響を受けていることは明らかであることから、日本書紀の定める神武天皇即位紀元を定めるにあたっては讖緯説を採用しているということが分かります。
加えて神武天皇が日向国(宮崎県)から大和を目指して東征を始めたのは甲寅の年であり、これも中国の思想の縁起のいい年をとっているということも根拠のひとつです。
神武天皇は127歳で崩御したとされているように古代の天皇には寿命が100歳を超えている場合が多くありますが、これは辛酉革命説をとるためには起点の年から1260年をマイナスしなければならず中国の思想に合わせるために詳細な年齢が分かっていない上古の天皇の寿命を延ばして対応したからではないかと言われています。
辛酉革命説の起点とされたのが推古天皇9(601)年、聖徳太子の改革の年
上の段落では中国では辛酉の年に王朝革命が起きるとする思想があるということを述べました。ここからはどの天皇の御代を起点として辛酉革命説を説明するかということについて検討していきます。
日本書紀が完成したとされる年は養老4(720)年ですが、この辺りの辛酉の年を挙げてみます。
- 481年 第22代清寧天皇(雄略天皇の皇子)
- 541年 第29代欽明天皇
- 601年 第33代推古天皇
- 661年 第37代斉明天皇
以上が辛酉の年です。
この辺りを見比べて大きな革命が起こったのは推古天皇の御代だと考えられています。推古天皇の御代には聖徳太子が摂政として政治を行い、推古天皇9(601)年には斑鳩宮に都を移したと言われています。また、この頃には冠位十二階や憲法十七条の制定など中央集権国家体制の確立を図った点から政治的に大きな変化があった年とされています。聖徳太子というと現代においては仏教を保護したというイメージがあるでしょうが、先代旧事本紀を撰したのが聖徳太子と記されていたり神道五部書でも聖徳太子を持ちあげるような記述があり神道においても重要な人物と捉えられていたと考えられます。
したがって、日本書紀の編者は聖徳太子が活躍した推古天皇の御代の辛酉を起点として601年から1260年を引いて、神武天皇即位紀元を紀元前660年としたと考えられます。
辛酉革命説の起点は斉明天皇の御代?計算間違いがあったのではないかという説
しかしながら、聖徳太子の活躍を辛酉の大革命と捉える考え方には批判的な意見もあります。聖徳太子の活躍した推古天皇2年よりも第37代斉明天皇の御代の辛酉である661年の方が大革命の年としてふさわしいのではないかという意見です。また朝鮮半島での情勢が悪化し、日本と友好的な関係にあった百済が唐と新羅の連合軍に圧されて斉明天皇6年(660年)に滅亡し、翌年には百済の残党が復興のために起こした戦いに日本も参加し斉明天皇も自ら九州へ出兵するも那の津にて急死してしまいました。この後しばらくの間は息子にあたる中大兄皇子が皇位に就かないまま政治を行いましたが、668年に近江大津宮にて即位し天智天皇となりました。天智天皇は日本最古の律令と言われる近江令や日本最古の戸籍と言われている庚午年籍の作成など公地公民体制の礎を築いた人物であり、中央集権体制を前進させた人物でありその功績は大きいものだったと想像できます。これらの点を考慮して斉明天皇の崩御の年である辛酉年を起点としているのではないかと言われることもあります。斉明天皇の御代の辛酉を起点としていたとする説によると日本書紀に記載されている神武天皇即位の年とズレることになりますが、これについては日本書紀の編者が誤って一蔀を60×22としてしまったのではないかと説明されています。