伊勢神宮は内宮と外宮に分けられ、合わせて2つの正宮と14の別宮があります。
天照大御神を御祭神とする内宮には第一別宮として荒祭宮が豊受大御神を御祭神とする外宮には第一別宮として多賀宮がありますが、これらはそれぞれ天照大御神と豊受大御神の荒魂を祀っています。
内宮御正宮と荒祭宮はかつては同一区画内に社殿が設けられていたとする説と荒祭宮・多賀宮に鳥居がない理由を紹介していこうと思います。
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目次
もともと天照大御神の御魂を瀧原宮・瀧原並宮のように正宮と荒祭宮に分けて祀っていた
内宮(皇大神宮)の正宮は天照大御神をお祀りし内宮域内に鎮座する第一別宮の荒祭宮では天照大御神の荒魂をお祀りしています。荒魂をわざわざ荒祭宮の御祭神としていることや今後の段落で紹介していく内容をもとに考えれば、神宮側から敢えて宣言はされていないものの正宮には天照大御神の和魂をお祀りしていると考えるのが自然です。このように和御魂と荒御魂を分けてお祀りする方法はより丁重にお祀りしたいということから行われるようになりました。
和御魂と荒御魂を分けてお祀りしている例としては別宮である瀧原宮と瀧原並宮が挙げられ、内宮域内でも同様に和御魂と荒御魂を並べてお祀りしていたのではないかと推測されています。この場合現在の正宮・荒祭宮のどちらが元来のものなのかということが疑問となり、以下で説明する2つの説が主張されるに到りました。
正宮で祀られていた天照大御神のから荒御魂のみを荒祭宮に遷したとする御巫清直氏の説
江戸時代の国学者であり神宮に関する研究に努めた御巫清直氏が主張した説によると、もともと和御魂をお祀りする社と荒御魂をお祀りする社は並列の関係で用意されていたが、持統天皇4年(690年)の御垣の造営の際に荒御魂が遷されたとしています。
倭姫命が現在の地に神宮をお定めになった当初の社殿は現在と比べれば小規模なものだったと考えられますが、奈良時代になると壬申の乱で大海人皇子が勝利したことをきっかけに神宮の地位は向上し、持統天皇4年(690年)には初の式年遷宮が行われるようになり、この時に大幅な社殿の変更があったのではないかと考えられています。
この時、御垣を造営するにあたって現在の正宮の地では2つの社を用意するには狭すぎたため荒御魂を祀る社殿を遷す必要があったと説明しています。
荒祭宮で祀られていた天照大御神から和御魂のみを正宮に遷したとする説
現在の正宮は板垣・外玉垣・内玉垣・瑞垣という4重の垣によって守られていますが、持統天皇の式年遷宮の際にこのような広壮な社殿を造営するにあたって荒祭宮周辺の区域では祭祀を行うのに不十分になったのではないかと説明されます。天武天皇・持統天皇の御代に社殿の増築が行われたことは明らかになっていますが、増築を行うのであれば新しく広大な土地を用意して和御魂を遷してお祀りしたと考える方が自然であり、正宮の裏手には山を切り出した跡が見て取れます。さらに、現在の正宮の区画を見ると南北に広い形をしています。これは持統天皇8年に遷都された藤原京に似た区画となっており、都の造営に先立って天照大御神をお祀りするための社を造営したとも説明できます。
また、実際に荒祭宮の北側の山林からは五世紀初めのものとみられる祭祀遺物が出土しており、持統天皇の式年遷宮以前から荒祭宮周辺が祭場として利用されていたことは間違いないと言えます。ただし、この祭祀遺物が神宮に関するものであるということは証明できておらず神宮創建前のものであるということも否定できませんので、荒祭宮から正宮へ天照大御神の和御魂が遷されたという説明も御巫清直の説と同様に明確に証言できるものではありません。
荒祭宮と多賀宮に鳥居がない理由は正宮と一体の関係にあるから
ここまででもともとは天照大御神の和御魂と荒御魂は同じ区画内で並列に祀られていたということを説明してきました。ここからわかることは和御魂と荒御魂を祀る社は本来は一体の関係にあったということで、伊雑宮や風日祈宮、倭姫宮などが社殿の前に鳥居を有しているのに対して内宮・外宮の第一別宮たる荒祭宮と多賀宮に鳥居がないのは和御魂を祀る正宮の別けの宮であるからと考えることができます。