友人からの誘いを
「その日はお祭りが…」と断ると
「お祭り!?🥺」と目を輝かされることがあります。「祭りには厳粛な場面と楽しい場面があって、今回は厳粛な神事の場しかないよ」と説明するとガッカリされるので、
(無駄に期待させてしまったな…)
と何故か申し訳ない気持ちになります。— ⛩たむ⛩【神社関係者】 (@kytm16) January 13, 2021
祭りというと屋台が出て、花火が上がって...という祭りを思い浮かべる人が多いかと思います。しかし、神社で実際に行われる祭りの中にはこのような行事が行われない場合もあります。
今回は本来、祭りとはどのようなものを指すのか説明していきます!
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目次
祭りの語源:現代の「祭り」という語義は多岐にわたる
「まつり」という語について語源は「奉る」であるというのが有力説です。
奉ると書くと多くの場合「たてまつる」と読むことが多いですが、祝詞の場合は動詞として使うのではなく敬語表現として動詞に加えられることが多く、「定め奉りて」のように接尾語として使います。この場合は「まつり」と発音し、これが名詞化して「まつり」という言葉になったのです。
また、「まつり」の語源は「待つ」にあるという説もあります。これは神の来臨を待つということにつながり、そこから「まつり」に転じたという説です。
以上のように、「まつり」というのは神と対峙するときに用いられる言葉であるということです。
祭りというのはどのようなものであるか、簡単に説明すると神の御霊の活性化・鎮魂や神への感謝のために行われるものです。
具体例を上げると豊作祈願や収穫感謝の他、悪霊を鎮めたり、先祖の霊を祀るといったことです。
豊作祈願と収穫感謝については祈年祭や新嘗祭という名前が付けられ、全国の神社や宮中で祭祀が行われています。
本来、祭りはカミの存在を前提とする
祭りというのは神事と神賑わいで構成されるとも言われており、多くの人がワイワイと楽しむものとして認識しているのは神賑わいの部分です。
祭りの規模が大きくなっていくと、神事に比べて神賑わいの部分の方が大きくなりやすいことから、ワイワイ楽しいものに「祭り」という語をつけるようになったと考えられ、
TBSで放映されるテレビ番組「オールスター感謝祭」などがその例です。
このように現在「祭り」と呼ばれるものの中には、
純然たる祭りと本来の意味とは外れる祭りがあると言えます。
この二つの祭りの違いは「カミ」という存在の有無でしょう。
神の御霊を祀るという意味を持つものが古来から日本で行われる純然たる祭りということです。
祭りには斎忌が不可欠
前述の通り、本来祭りというものにはカミという存在が前提となっていました。
カミという神聖な存在をお祀りするためには心身の清浄が不可欠であり、清浄を保つために斎忌が行われました。
斎忌というのは祭りを行う上で最も重要な事項の一つであり、古代から斎忌の成果が祭りの成否に直接的に関係すると言われており現代でも祭りの前の斎忌を重視することは多々あります。
これを民俗学ではハレとケとい言葉を用いて説明します。
ハレというのが祭りを指し、ケというのが日常を指します。ケの状態はハレの状態のままでは到達しきれず、ケの状態からハレの状態に飛躍するために斎忌(モノイミ)、すなわち禁欲と節制を行う期間が設けられていたのです。
したがって、祭りのいうのは日常通りの生活のまま迎えることは決してできず、日常の状態から一線を画す必要があるのであり、ハレとケでは我々現代人が想像もできないような対立があったということです。
カミという神聖な存在と関わる場合、祭りを運営する人々の清浄を保たなくてはいけませんが集団の指導者的存在は中でも最も厳格な斎忌を行わなくてはいけません。
科学が発展していない時代でも指導者自体をカミと考えることはなかったでしょうから、集団の指導者的存在は祭りを通してカミとつながり神託を受けることで指導者としての資格を宣明していたと考えられます。
集団の長は苦しい斎忌を経ることで、長としての力を誇示する役割も果たしたようです。さらに、長の斎忌による祭りの成否が共同体の運営の良し悪しにつながるとも考えられます。
しかし、時代の経過と共に指導者の役割が複雑化すると斎忌を他の者に任せようということになっていきます。このように指導者と祭りの主宰者が分けられると、祭りと政治の分離につながります。
まつりという読みをする漢字には祭のほかに政という漢字もあることが古代の政治体系では神事と政治が一体化していたことを表す例であり、祭政の分離の制度が現在も続いているのです。
祭りの最も本質的な意味は神を「もてなす」こと
さて、斎忌を済ませ心身を正常に保ったうえで神に来臨していただく場合に最も重要とされるのが「もてなし」です。もてなしというと東京オリンピック誘致の際に滝川クリステルさんが「お・も・て・な・し」という語を用いたように来賓の方を篤く取り扱うという意味で用いられます。これは神に対しても同じで、いつも我々人間を見守り導いてくださる神様を我々が用意した祭場にお呼びしているということですから、最上級の待遇が求められるということです。
では「もてなし」とはどのようなことをするかというと、幣帛や神饌を奉ることなどたくさんあります。
また、神社というのはカミに滞在していただくところですから最も清浄に保っておく必要があります。これももてなしのひとつです。
祭りの季節は稲作に関連した春と秋
一年の行事を思い出してもらうと、春と秋に祭りが多いことに気が付く方がいるかもしれません。
古代は4月と9月が最も祭りが多かったとされており、これらの月に多くの祭りが行われる理由は4月は農耕の開始の時期、9月は収穫の時期だからです。
そして10月は祭りが少なく、11月になると新嘗祭などの行事が行われます。これは、古来は9月の収穫をもって農耕に関する祭りが終了するということではなく、10月いっぱい間を置いて11月に神事を行ったということです。これが10月を神無月と呼ぶ所以とも言われており、神無月というのは11月の祭りに向けた斎忌の時期だったということでしょう。
こういった事情から奈良時代ごろからは4月と11月がもっとも重要な月とされ、これらに加えて農耕の準備を行う2月も祈年祭を行う重要な月としたのです。
祭りにはカミ迎え・カミ祀り・カミ送りの三つの場面がある
祭りは主にカミ迎え・カミ祀り・カミ送りの3つの場面に分けられます。
常設の神社が一般的な現代ではイメージが湧きにくいかもしれませんが、常設の祭場が設置されるようになるまでは斎庭という臨時の祭場にカミをお呼びして祭祀を行っていたのです。
家を建てるときに行われる地鎮祭が現代の分かりやすい例で、カミをお呼びして(降神)お祀りし最後にお送りする(昇神)ということが行われています。
カミ迎えとは神にお越しいただくこと
カミ迎えとはその名前の通りカミにお越しいただくということです。
神事に初めには必ず心身を清めます。神道では”清浄”を最も重要視しており、祭りという非日常的な儀式を行うにあたって、修祓と言って必ず心身を清浄にします。
修祓を終えると開扉が行われたり、神主の「オー」という掛け声とともにカミがお越しになられます。
カミ祀りは神をもてなす祭りの中核
カミ祀りこそが神事の核とも言え、ここでは神饌の献上、祝詞奏上、神楽の奉納や玉串奉奠が行われます。日本では言霊という言葉がある通り、言葉には霊的な力があると考えられており、祝詞では祭りの目的とカミへの感謝や祈願を行います。
ここで重要となるのが神人饗宴です。
祭りの基本はカミをもてなすということですが、「人間が喜ぶものはカミも喜んでくださる」という考えから人間の喜ぶものを神饌にしようと考えるようになります。現在では直会という神に備えたものをいただく儀式がありますが、これは神が食べたものをいただくことで神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けていただくという意味を持ちます。これは宮中で行われる新嘗祭でも行われていることであり、神人共食がまつりの中で最も重要なことの一つでもあるとされています。
カミ送りとは神をお送りすること
閉扉や神主の「オー」という掛け声と共にカミをお送りします。
この時に唱える「オー」という掛け声は神がお帰りになる もしくは御扉を閉じるという神聖な次第を周囲に知らせる意味があり、頭を下げてカミを送ります。
これからの神社での祭りは変わっていくのか
近年は少子高齢化などから神社に訪れる人もだんだんと減ってきています。それにより長い歴史と伝統を持つ祭りの斎行が困難になったり、神社の存在感が希薄になっています。
これからの神社では神事を続けていくと共に、神賑わいを充実させて多くの人々に神社と関わる機会を持ってもらうということが必要だと考えます。最初は神賑わいを目当てに集まった人も、それをきっかけに神事の部分を知り興味を持ってくださるとうれしいです。