目次
- 1 第65代花山天皇
- 2 第66代一条天皇
- 3 第67代三条天皇・第68代後一条天皇
- 4 第69代後朱雀天皇・第70代後冷泉天皇
- 5 第71代後三条天皇
- 6 第72代白河天皇・第73代堀川天皇
- 7 第74代鳥羽天皇・第75代崇徳天皇
- 8 第76代近衛天皇・第77代後白河天皇
- 9 第78代二条天皇・第79代六条天皇
- 10 第80代高倉天皇・第81代安徳天皇
- 11 第82代後鳥羽天皇
- 12 第83代土御門天皇・第84代順徳天皇・第85代仲恭天皇
- 13 第86代御堀河天皇・第87代四条天皇
- 14 第88代後嵯峨天皇
- 15 第89代後深草天皇・第90代亀山天皇
- 16 第91代後宇多天皇
- 17 第92代伏見天皇・第93代後伏見天皇
- 18 第94代後二条天皇
- 19 第96代後醍醐天皇・北朝初代光厳天皇・第2代光明天皇
- 20 第97代後村上天皇・北朝第3代崇光天皇・北朝第4代後光厳天皇
- 21 第98代長慶天皇
第65代花山天皇
花山天皇は摂政を務めてきた藤原伊尹を祖父に持ち 大きな後ろ盾を持って即位するはずでしたが、即位の際には藤原伊尹は死去していました。
このころには皇太子 懐仁親王の祖父である藤原兼家が力を強めており、花山天皇は即位から2年足らずで天皇の座を渡すことになってしまい、譲位後は出家し熊野の地で仏道修行に励むようになりました。これが現在にも伝わる西国三十三所巡礼の起源です。
第66代一条天皇
花山天皇の懐仁親王への譲位により一条天皇が誕生しました。
摂政・太政大臣を務めた藤原兼家は子の藤原道隆に家督を譲ります。藤原道隆は娘の定子を一条天皇の后としており、外祖父として政権を握ることになります。藤原道隆が死去後は藤原氏内での家督争いが始まり、勝利した藤原道長が内覧という関白に準ずる地位となり実権を掌握しました。
藤原道長は娘の彰子を一条天皇の后にして中宮とし、1帝2后の先例をつくりました。
この時代には皇后 定子には清少納言が、中宮 彰子には紫式部が仕え、それぞれ『枕草子』と『源氏物語』が執筆されました。
また一条天皇は陰陽師 安倍晴明を支援したとされています。
一条天皇は病により、冷泉天皇の子 居貞親王に譲位しました。
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第67代三条天皇・第68代後一条天皇
冷泉天皇が居貞親王に譲位したことにより、三条天皇が誕生しました。
藤原道長は孫にあたるに敦成親王(一条天皇の子)を即位させたいと考えており、藤原道長にとって三条天皇は敦成親王が成長するまでの単なる中継ぎでしかありませんでした。
三条天皇は失明してしまい、これを理由に藤原道長は敦成親王への譲位を迫ります。三条天皇は藤原道長の娘 藤原妍子との間に敦明親王を儲けており、敦明親王を次期皇太子に立てることを条件に敦成親王に譲位し、後一条天皇が誕生しました。
藤原道真は一条天皇と娘の彰子との間に儲けた敦成親王を即位させます。また、道長の娘である威子を中宮につけるなどしており、この時期には藤原氏の全盛期を迎えたと言えます。
しかし、後一条天皇は子宝に恵まれないまま崩御してしまいました。
第69代後朱雀天皇・第70代後冷泉天皇
第68代三条天皇は子 敦明親王を皇太子とすることを条件として皇位を退いたとされていますが、敦明親王は藤原道長らの圧力を前に結局 即位は叶わず、後一条天皇の同母弟が皇位を継ぐこととなり、後朱雀天皇が誕生しました。
道長は娘 嬉子を后につけ、親仁親王ら1男2女を儲けました。
結局 嬉子との間に生まれた親仁親王が即位し冷泉天皇となりました。
第71代後三条天皇
後冷泉天皇が誕生した際 異母弟である尊仁親王が皇太子とされていました。しかし、この時関白として実権を握っていた藤原頼通(藤原道長の子)と弟の教通は後冷泉天皇に娘を嫁がせ、皇位を奪おうとしていました。
藤原頼通や教通から圧力を受けていた尊仁親王でしたが、結局 後冷泉天皇には子が生まれず、予定通り尊仁親王が即位し後三条天皇が誕生しました。
後三条天皇は長きにわたる摂関政治の欠点に気付いており、大江匡房など多くの者を登用して政治を行いました。
記録荘園券契所という調査機関を設置し違法な手段によって荘園とされた土地の整理を行い国家財政を復活させたほか、絹や布の品質を統一する絹布の制、農作物を測る枡を統一する宣旨枡、物資交換の換算率を統一する估価法を定め、後三条天皇の治世は後に延久の善政として称賛されました。
第72代白河天皇・第73代堀川天皇
後三条天皇は子 貞仁親王に譲位し白河天皇が誕生しました。
白河天皇は後三条天皇の政策を引き継ぎ荘園整理を行い摂関家の弱体化に努め、院庁には北面の武士という警備を設置しました。
白河天皇は即位から約15年後、8歳の子に譲位し堀河天皇が誕生しました。
白河上皇となった後も幼い堀河天皇を助け、娘の死をきっかけに出家した後も元天皇という立場で政務を執る院政を行いました。
白河法皇はたいへん強い力を有しており、堀河天皇以降3代にわたり政務を執り続けました。
また『平家物語』では白河法皇は「天下三不如意」として「賀茂川の水・双六の賽、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)だけは思うようにならない」と語ったとされていることからも権力の掌握ぶりを理解できます。
一方の堀河天皇は白河法皇の関与により政務への興味を失っていき、文学に没頭していきました。堀河天皇は直接政務を執ることがないまま崩御してしまいました。
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第74代鳥羽天皇・第75代崇徳天皇
堀河天皇の崩御により5歳の子が皇位に就くことになり、鳥羽天皇が誕生しました。鳥羽天皇の即位の際にも白河法皇の力は強く、政務を執ることができませんでした。
鳥羽天皇は白河法皇の養女である藤原璋子を中宮とし、白河法皇は2人の間の子を溺愛し自らの手元に置いて育てました。そして、その子を即位させ崇徳天皇が誕生しました。
崇徳天皇の御代には白河法皇が崩御し、代わって鳥羽上皇が院政を始めます。白河法皇という大きな後ろ盾を失ってしまった崇徳天皇は鳥羽天皇と対立するようになりました。
結局 崇徳天皇も天皇として政務を執ることはなく、鳥羽上皇の子にその座を奪われることになり、後に保元の乱で流罪となります。
第76代近衛天皇・第77代後白河天皇
鳥羽上皇は自らの子を皇位に就け、近衛天皇が誕生します。この頃、鳥羽上皇は出家し鳥羽法皇となっていました。
近衛天皇は藤原多子を后としますが 子のないままに崩御してしまい、鳥羽法皇の子(崇徳天皇の弟)が即位し、後白河天皇が誕生しました。これにより崇徳上皇の子を即位させるという望みは絶たれることになります。
その後、鳥羽法皇は崩御してしまい、子の重仁親王を即位させたい崇徳上皇と後白河天皇の対立が激化します。崇徳天皇と藤原頼長は源為義らを招集し、これに対抗して後白河天皇と藤原忠通は源義朝・平清盛を招集し平治の乱が勃発しました。結果 上皇側の敗北に終わり、崇徳上皇は讃岐に流罪になり、そのまま崩御しました。崩御後、後白河天皇と藤原忠通側の臣下が次々に亡くなり菅原道真・平将門にならぶ日本三大怨霊に数えられることになりました。
この後、後白河天皇は子に譲位し上皇・法皇として院政を行い政務を執っていきます。
後白河天皇は東大寺の大仏再建や今様と言われる民間の流行歌を纏めた『梁塵秘抄』を撰しました。
第78代二条天皇・第79代六条天皇
後白河天皇は子の守仁親王に譲位して二条天皇が誕生しました。
二条天皇は親政を行おうとし 一時は院政は停止されましたが、上皇の圧力に屈し またしても院政が始まることになりました。
1159年になると近臣の対立により平治の乱が起こります。平治の乱では平清盛が藤原信頼や源義朝を滅ぼしました。これにより敵対勢力を一掃した後白河上皇は権力を強め、武士として初めて公卿の地位に就いた平清盛の協力のもと院政という政治体制を強固なものにしました。
後白河上皇は二条天皇の崩御後、二条天皇の子に皇位を継がせることになり、六条天皇が誕生しました。この時、六条天皇は生後8か月でこれが史上最年少での即位となりました。
またそれから2年後に後白河上皇の意向により叔父に譲位することとなり、わずか4歳で上皇となりこちらも史上最年少での上皇となりました。
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第80代高倉天皇・第81代安徳天皇
六条天皇は叔父に譲位することになり高倉天皇が誕生します。
この時代にも出家し法皇となった後白河法皇が院政を敷いていました。しかし、次第に平清盛の力が絶大なものになっていき、後白河法皇と平清盛の関係は悪化してしまいます。
後白河法皇の近臣が平家打倒の謀議を行ったことが発覚した鹿ケ谷の陰謀をきっかけに、平清盛が京都を制圧し後白河法皇を幽閉する治承三年の政変が起こりました。これにより院政は停止され、平家政権が成立しました。
高倉天皇は平清盛の娘 徳子を中宮に迎え、子に譲位し安徳天皇が誕生します。
一方、源頼朝の旗揚げにより一の谷の戦い・屋島の戦いを経て平氏は安徳天皇を擁し三種の神器をもって西へ落ちのびます。そして壇ノ浦の戦いに敗北した平氏は清盛の妻 時子(安徳天皇の祖母)に抱えられ海に飛び込み水死し、わずか6歳で崩御しました。
また、時子は三種の神器を身につけており、一時は水没してしまいましたが八咫鏡や八尺瓊勾玉は木箱に入っていたことで浮いてきたところを発見されました。しかし、天叢雲剣はそのまま海に沈んでしまい行方不明になってしまったとされています。
第82代後鳥羽天皇
平氏が三種の神器と安徳天皇を擁して西国に落ち延びると、京では新天皇を擁立しようとする動きがみられました。そこで、高倉天皇の子で安徳天皇の異母弟を即位させることとなり後鳥羽上皇が誕生しました。この時、三種の神器の揃わぬまま即位の礼が行われました。
後鳥羽天皇は刀を打つことを好み、また菊の花を好んでいました。後鳥羽天皇は刀に菊紋章をつけるよう鵜になりこれを由来として天皇家の菊紋章が受け継がれていくことになります。
千五百番合わせという大規模な歌合を開催し、『新古今和歌集』の編纂にも関わりました。
1885年壇ノ浦の戦いで平清盛が討たれると、後白河法皇は院政を復活させます。
後白河法皇は平清盛の例で武士を警戒していましたが、後白河法皇が崩御すると関白 九条兼実の主導で源頼朝を征夷大将軍に任命し朝廷の下に後に言う幕府という機関を置かせました。鎌倉幕府が開かれた当初は武士の力は東国にしか及んでおらず、あくまでも朝廷の下にある機関という立ち位置でした。西国はこれまで通り朝廷の管轄にありました。
1196年までは関白 九条兼実が後鳥羽天皇の補佐役として政治を行っていましたが、建久7年の政変で失脚しました。1998年になると後鳥羽天皇は子に譲位し土御門天皇が誕生し、自らは上皇として院政を行いました。
第83代土御門天皇・第84代順徳天皇・第85代仲恭天皇
皇位についた土御門天皇でしたが、後鳥羽上皇は即位から1年も経たないうちに退位を迫ります。後鳥羽上皇は後白河法皇の例から幕府の存在を疎ましく思っており、温和な性格の土御門天皇では心もとないと感じたとされており、土御門天皇の異母弟を即位させ順徳天皇が誕生しました。
順徳天皇が即位した頃、幕府では源頼朝から跡を継いだ第2代頼家・第3代実朝が殺害され、執権の北条家が政治を行うようになっていました。この時、幕府側は上皇の皇子から将軍を出すことを提案しましたが、後鳥羽上皇は将来 国が2分することを危惧して提案を拒否したとされています。
将軍不在を好機と見た後鳥羽上皇・順徳天皇は子の懐成親王に譲位し、承久の乱をおこしますが北条泰時率いる幕府軍の前に敗れ後鳥羽上皇・順徳天皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、承久の乱とは無関係であった土御門天皇も自ら土佐に流されました。さらに即位したばかりの仲恭天皇も幕府によって廃され、史上最短の在位期間の天皇となりました。
承久の乱の後、幕府は後鳥羽上皇側の所領を御家人に与えることで勢力を拡大し、京都の監視と西国武士の統率のために六波羅探題を設置しました。
第86代御堀河天皇・第87代四条天皇
仲哀天皇が幕府により退位させられ、即位したのが御堀河天皇です。
御堀河天皇は即位時、10歳であったため父の守貞親王に異例ではあるが上皇の尊号を与え院政を行わせました。
守貞親王が死去すると院政を行うため子に譲位し、四条天皇が誕生しました。
しかし、御堀河上皇も四条天皇も若くして亡くなってしまい、子もいなかったため仕方なく後鳥羽上皇の血統に戻り、幕府の推薦により承久の乱に直接関係しなかった土御門上皇の子が即位することになりました。
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第88代後嵯峨天皇
四条天皇が12歳で崩御し、子もなかったため仕方なく隠岐に配流された後鳥羽上皇の血統から後継を選ぶことになりました。ここで順徳天皇の子(仲恭天皇の異母弟)である忠成親王を推す九条道家ら朝廷側の公卿と土御門天皇の子 邦仁親王を推す幕府が揉め、11日間の空位期間があったとされています。幕府は承久の乱に関わった順徳天皇の子を皇位に就けることに反対し、結局は鶴岡八幡宮で神託があったとして邦仁親王が皇位に就くことになり後嵯峨天皇が誕生しました。
後嵯峨天皇は朝廷の権力者である西園寺家の姞子を后とし、子に譲位し院政を開始しました。
第89代後深草天皇・第90代亀山天皇
後嵯峨天皇からの譲位を受け後深草天皇が誕生しました。
後深草天皇の御代には後嵯峨天皇の子で異母兄にあたる宗尊親王が将軍として鎌倉幕府に迎えられました。
後深草天皇は生来 身体が弱く後嵯峨天皇は次第に弟の恒仁親王を寵愛するようになりました。そして、後深草天皇は後嵯峨上皇に迫られ弟へ譲位し亀山天皇が誕生しました。上皇は坂上田村麻呂が用いたとされる朝廷守護の剣も亀山天皇に託しており、後深草上皇と亀山天皇の対立は激化していきます。
亀山天皇の御代、中国を蒙古系民族が統一して建国した元という国のフビライ=ハンから元に服従するように国書が送られました。これを機に朝廷だけでなく幕府など全国の危機感が高まり、神社では異国降伏の祈願が行われました。
後嵯峨上皇は後継者を指名する前に崩御してしまい、後深草系統(持明院統)と亀山系統(大覚寺統)の後継者争いが現実化します。この争いの決着は幕府にゆだねられましたが、幕府もこれを決めかねますが、最終的には亀山天皇が正統であるとして亀山天皇の子が即位することになりました。
第91代後宇多天皇
亀山天皇が子に譲位し宇多天皇が誕生すると、亀山上皇は上皇として院政を行います。
後宇多天皇が即位してまもなくの1274年には第一回目の元軍襲来 文永の役、1281年には第二回目となる弘安の役が起こります。この時、亀山上皇は自ら山陵や石清水八幡宮に参拝し国家安泰の祈願を行いました。さらに、伊勢神宮に勅使を送り「日本が滅びるときには私の命を召し上げよう」という祈願を行ったとも言われています。
後宇多天皇は文学に長けており、書道の作品『後宇多天皇宸翰御手印遺告』や勅撰和歌集『新後撰和歌集』を編纂が開始されました。
持明院統と大覚寺統の争いについては、1275年後深草上皇は抗議のために出家し、慌てた幕府は後深草法皇の子 煕仁親王を皇太子とすることで一応決着しました。
第92代伏見天皇・第93代後伏見天皇
後宇多天皇の譲位により、皇太子だった煕仁親王が即位し伏見天皇が誕生しました。
これにより、大覚寺統の後宇多天皇から持明院統の伏見天皇に皇位が移ったことになり、これから大覚寺統と持明院統が交互に天皇を出す両統迭立の時代が始まります。
伏見天皇は幕府の台頭によって落ち込んだ朝廷の権力回復に力を入れ、記録荘園券契所の充実を行いました。文学の面では書道に優れていたとされ、また上皇となってからは最大の勅撰和歌集『玉葉和歌集』を撰しました。
1290年には浅原為頼が御所を訪れ、女官に天皇の寝室の場所を訪ねた。女官はとっさに実際の寝室とは違う場所を教えて、その間に天皇は女装をして三種の神器をもって皇太子の胤仁親王とともに脱出する浅原事件が起こり、大覚寺統の関与が疑われましたが 真相は分かっていません。
伏見天皇は胤仁親王に譲位し院政を行い後伏見天皇が誕生しました。
幕府は両統迭立の維持のために後宇多天皇(大覚寺統)の子 邦治親王を皇太子としました。
第94代後二条天皇
伏見天皇・後伏見天皇と持明院統の天皇が2代連続しており、これが両統迭立に反すると考えた亀山上皇が抗議したことで、持明院統の後伏見天皇から譲位を受けて大覚寺統の後二条天皇が誕生しました。
後二条天皇は歌合の開催や『新後撰和歌集』の編纂が行われました。
後二条天皇は即位7年で崩御してしまい、持明院統の伏見天皇の子(後伏見天皇の弟)が即位し花園天皇が誕生しました。
政務に関しては伏見上皇の後、後伏見上皇が院政を敷いた。
文学に関しては天子の道を説いた著書『誡太子書』を著し、『風雅和歌集』の監修も行いました。
第96代後醍醐天皇・北朝初代光厳天皇・第2代光明天皇
持明院統の後二条天皇の崩御により、大覚寺統から後醍醐天皇が誕生しました。
即位当初は父の後宇多法皇による院政が行われていましたが、後醍醐天皇は後宇多法皇に政務を返還するよう要求し、親政を開始しました。これが院政の終焉です。
この頃は幕府の権力が後継者の選定にまで入り込んでおり、いつかは譲位させられることや子を後継者にできないことへの不満があったとされています。そこで後醍醐天皇は討幕を計画(正中の変、元弘の乱)しますが、実行前に幕府側に計画が漏れてしまいました。これを受けて幕府は後醍醐天皇の廃位と隠岐への流罪を決定し、後継者として持明院統の光厳天皇が誕生しました。
これでも討幕の勢いは治まらず、子の護良親王と楠木正成が吉野で挙兵し、後醍醐天皇も名和氏とともに隠岐を脱出し挙兵を行いました。すると幕府側だった足利尊氏が寝返り後醍醐天皇に味方したことで京都の六波羅探題の制圧に成功し、関東では新田義貞が北条氏を撃ったことで鎌倉幕府が滅亡しました。
帰京した後醍醐天皇は光厳天皇の皇位を否定し、摂関を置かずに天皇自ら政治を行う建武の新政を開始しました。建武の新政では武士を重要な役職に就けず、足利尊氏の征夷大将軍の地位の要求を退け、代わりに護良親王を征夷大将軍に任命するなど武士を軽視する政治を行っていたことで足利尊氏との関係が悪化し、戦闘にまで発展してしまいました。最初は優勢だった新田義貞率いる朝廷軍でしたが やがて兵を整えた足利尊氏に押されるようになり、後醍醐天皇は比叡山に逃れ、足利尊氏の要求を呑んで三種の神器を渡したとされています。
足利尊氏は持明院統の光厳天皇の子を即位させ光明天皇を擁立し、「建武式目」を発して室町幕府を開きました。
一方、後醍醐天皇は足利尊氏に渡した三種の神器を偽物だと主張し、二つの朝廷が並立する南北朝時代が始まりました。
後醍醐天皇の功績としては伊勢神宮を保護したことが挙げられます。当時の伊勢神宮は八幡宮等が台頭したことや、度会家行の伊勢神道では持明院統から斎王を送るという制度を重要視しなかったことから天皇家との関係が希薄になり、伊勢神宮は権威を失いつつありました。しかし、後醍醐天皇は斎王を派遣するという制度を尊重し、大覚寺統から伊勢神宮に斎王を派遣するなど伊勢神道保護の姿勢をとったことで伊勢神宮と天皇家との関係が強まり、次第に伊勢神宮の権威も回復していきました。
第97代後村上天皇・北朝第3代崇光天皇・北朝第4代後光厳天皇
後醍醐天皇が子に譲位し、後村上天皇が誕生します。
1350年に足利尊氏の執事 高師直と弟 足利直義の内輪揉めである観応の擾乱が発生すると、後村上天皇は敗北した足利直義を帰順させ、その後 足利尊氏とも和睦したこと北朝の光厳上皇による院政が停止され北朝第3代崇光天皇は廃されました。
この後、尊氏は関東に逃れた直義の討伐に向かっており、これを好機と見た尊氏との和睦を無視し南朝軍は京を占拠し北朝の三種の神器(後醍醐天皇が渡した偽物か?)を接収しましたが、足利義詮の入京により劣勢に立たされると光厳上皇・光明上皇・崇光上皇を拉致監禁しました。これにより北朝には上皇も天皇もいないという状況が起こり混乱し、朝廷によって征夷大将軍に任命されているはずの幕府にも大きな混乱が生じましたが、幕府は仏門に入っていた光厳上皇の子 弥仁親王を即位させ後光厳天皇が誕生しました。
第98代長慶天皇
準備中です。