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目次
- 1 第34代舒明天皇
- 2 第35代皇極天皇
- 3 第36代孝徳天皇
- 4 第37代斉明天皇・第38代天智天皇
- 5 第39代弘文天皇・第40代天武天皇
- 6 第41代持統天皇
- 7 第42代文武天皇
- 8 第43代元明天皇
- 9 第44代元正天皇
- 10 第45代聖武天皇・第46代孝謙天皇
- 11 第47代淳仁天皇・第48代称徳天皇
- 12 第49代光仁天皇・第50代桓武天皇
- 13 第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇
- 14 第53代淳和天皇
- 15 第54代仁明天皇・第55代文武天皇
- 16 第56代清和天皇・第57代陽成天皇
- 17 第58代光孝天皇・第59代宇多天皇
- 18 第60代醍醐天皇・第61代朱雀天皇
- 19 第62代村上天皇
- 20 第63代冷泉天皇・第64代円融天皇
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第34代舒明天皇
蘇我馬子は厩戸王(聖徳太子)を次期天皇に就けるつもりでしたが、厩戸王は推古天皇の在位中に死去してしまいました。また、続いて蘇我馬子も死去し、子の蘇我蝦夷が跡を継ぎます。
推古天皇が崩御した時、後継者を決めていなかったことから後継者争いが勃発し、厩戸王の子 山背大兄皇子と敏達天皇の孫 田村皇子が争いましたが、蘇我蝦夷は何らかの理由で山背大兄皇子の即位を妨害し、田村皇子が即位し舒明天皇が誕生しました。
舒明天皇はこの後、菅原道真によって中止されるまで260年間続く第1回遣唐使を派遣し、また百済や新羅との交流も積極的に行われました。
遣隋使として派遣されていた高向玄理や南淵請安は舒明天皇の御代に帰国し、大陸文化を日本に伝えました。
第35代皇極天皇
舒明天皇の崩御後、山背大兄皇子が即位する可能性もあったが、またしても蘇我蝦夷がこれを阻止し、舒明天皇の皇后が即位により皇極天皇が誕生し、2人目の女帝となりました。
これにより、蘇我氏の影響力はさらに強まり、蝦夷とともに入鹿が政権を握っていました。蘇我入鹿は従兄弟にあたる古人大兄皇子を次期天皇とするため、斑鳩宮に火を放ち山背大兄皇子を殺害しました。
皇極天皇4年(645年)、飛鳥板蓋宮にて高句麗・新羅・百済の使者を呼んで儀式を行うことになっており、この儀式に参加する蘇我入鹿を皇極天皇の子 中大兄皇子と中臣鎌足が斬り、その後 蘇我蝦夷は館に火を放ち自害する乙巳の変が起こりました。
第36代孝徳天皇
乙巳の変の後、皇極天皇は中大兄皇子に譲位しようとしましたが、中大兄皇子は辞退し同母弟である軽皇子に譲位し孝徳天皇が誕生します。これが初の生前譲位です。
孝徳天皇は日本初の元号を「大化」と定め、翌年には「改新の詔」が発せられ、公地公民制や班田収授法、戸籍の作成、税制度の確立を行いました。
孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子に置いていましたが次第に二人の間の溝が深まり、孝徳天皇は失意のうちに崩御してしまいました。
第37代斉明天皇・第38代天智天皇
孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が重祚(一度退位したのち、もう一度皇位に就くこと)し斉明天皇が誕生しました。称徳天皇は中大兄皇子を皇太子に置いており、実質的には中大兄皇子が政権を握っていました。
斉明天皇の御代には、朝鮮半島では日本と交流のあった百済を新羅と唐が滅ぼしており、日本は朝鮮での交易ルートの確保と勢力拡大を目論み朝鮮半島への出兵を計画しました。
この計画の最中、斉明天皇は崩御してしまい、中大兄皇子が皇位につかず 皇太子としての地位のまま政治を行う称制を行い、663年に白村江の戦いを起こしましが敗北してしまいました。
白村江の戦いを終えた中大兄皇子は各地に防衛の拠点を造営し、さらに667年には都を内陸の近江大津宮に遷しました。そして遷都から1年後ようやく即位し天智天皇が誕生しました。
天智天皇は庚午年籍という日本最古の全国的な戸籍を作成し、公地公民制発展のための土台を造りました。
第39代弘文天皇・第40代天武天皇
天智天皇の崩御後、唯一成人していた大友皇子が即位し弘文天皇が誕生しました(即位していたかについて争いあり)が、武力で皇位を奪い取ろうとする皇位継承争いが勃発します。
672年 天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子は壬申の乱で争い、大海人皇子が勝利し、天武天皇が誕生しました。
天武天皇は唯一のライバルだった大友皇子勢力を壊滅させたことで絶大な権力を持つこととなり、皇族のみで政治を動かす皇親政治を行いました。
八色の姓を定め氏姓制度の再編を行い、律令(律は刑法・令は行政法にあたる)を定めました。歴史書の編纂事業を開始し後世に残る『記紀』の完成の土台をつくりました。さらに、神道的な祭祀を重視し天皇や伊勢神宮の権威を高めました。
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第41代持統天皇
天武天皇は天智天皇の娘である鸕野讃良皇女を皇后にしており、天武天皇の崩御後は鸕野讃良皇女が皇后の地位のまま政務を執る称制が行われていました。
天武天皇と鸕野讃良皇女の間には草壁皇子という子がおり、皇太子とされていましたが草壁皇子は生来 体が弱く天武天皇の崩御後すぐに死去してしまいました。
草壁皇子には天智天皇の娘である阿閇皇女との間に軽皇子という子がいましたが、いまだ幼かったため鸕野讃良皇女が即位し持統天皇が誕生し3人目の女帝となりました。
天武天皇の後を継ぎ律令制度の発展に努め、694年には中国をモデルとして碁盤の目のように区画された藤原京に遷都しました。
697年になると成長した軽皇子に譲位し、初めて太上天皇(上皇)を名乗ったとされています。
第42代文武天皇
持統天皇から譲位を受けた軽皇子は文武天皇となり、中臣鎌足の息子である藤原不比等の娘 宮子を后としていました。
文武天皇は藤原不比等や刑部親王、栗田真人らに初の本格的な律令である大宝律令を完成させさせました。702年には薩摩と種子島を征服するなど勢力拡大に努め、対外的には天武天皇以来30年途絶えていた遣唐使を再開させました。
このように多くの功績を残した文武天皇でしたが、父 草壁皇子のように身体が弱く、若くして崩御してしまいました。
第43代元明天皇
文武天皇が崩御した際、子の首皇子はいまだ幼かったため草壁皇子の妃で文武天皇の母である阿閇皇女が即位し、元明天皇が誕生しました。
皇后でない女性が皇位に就くということはかつてありませんでしたが、中継ぎとしての役割を果たし孫に譲位します。
元明天皇は和同開珎の鋳造、平城京への遷都、古事記の完成、諸国への風土記編纂の指示などを行いましたが、この裏では藤原不比等が指揮を執っており、ここから先は藤原氏とそれ以外の権力者が交互に政治に介入していくこととなります。
第44代元正天皇
皇太子である首皇子がまだ幼かったため、元明天皇は自らの娘に譲位し元正天皇が誕生しました。これまでは第33代推古天皇(敏達天皇の皇后)や第35代皇極天皇(舒明天皇の皇后)や第43代元明天皇(草壁皇子の妃)のように皇后もしくは皇太子妃が女帝になっていましたが、それ以外が女帝となるのは本件が初めてです。
(天武天皇の子である草壁皇子の子であるため男系継承は続いている)
元正天皇の御代には藤原不比等らが大宝律令を改善した養老律令を成立させた。
その後藤原不比等が死去し長屋王が政務を担当しました。
723年には三世一身法を制定し、公地公民制が崩れ始めました。
第45代聖武天皇・第46代孝謙天皇
首皇子が成長すると、元正天皇は譲位し太上天皇(上皇)となり、首皇子が即位し聖武天皇が誕生します。
聖武天皇の御代には長屋王の変や藤原広嗣の乱の他 疫病や災害が頻発し、世の中はたいへん混乱していました。この時、聖武天皇は仏教の力で混乱を乗り越えようと考えました。
都を何度も移しながら、各地に国分寺と国分尼寺を建立し、総国分寺として東大寺を建立し大仏の建立を命じます。しかし、大仏の建立には多額の財を必要とするため、743年墾田永年私財法を定め荘園という私有地を認め税を回収しようと考えました。これにより公地公民制は完全に崩壊し、荘園制に移行していきます。
聖武天皇は大仏が完成する前に出家してしまい、藤原不比等の娘である光明子との間に生まれた娘 阿部内親王に譲位し、孝謙天皇が誕生し6人目の女帝となり、光明子(光明皇太后)の推薦を受けた藤原仲麻呂がこれ以降影響力を持つようになりました。
藤原仲麻呂の台頭に危機感を持った橘奈良麻呂がクーデターを計画しますが(橘奈良麻呂の変)藤原仲麻呂はこれを事前に察知し、以降は絶大な権力を握ることとなりました。
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第47代淳仁天皇・第48代称徳天皇
孝謙天皇には子がいなかったため、舎人親王の子(天武天皇の孫)に譲位し淳仁天皇が誕生します。
淳仁天皇は藤原仲麻呂が推薦した人物であり、橘奈良麻呂の変で反対勢力を一掃した藤原仲麻呂は権力の頂点にありました。
光明皇太后が崩御すると、藤原仲麻呂は後ろ盾を失ったこととなり、孝謙上皇と藤原仲麻呂・淳仁天皇の関係は次第に悪化していきました。孝謙天皇は自身が病に伏せた際に看病をした僧 道鏡を寵愛するようになってからはさらに関係が悪化してしまい、孝謙皇太后は出家し法華寺に入ってしまいました。
お互いの不満が募った結果、藤原仲麻呂(この時、恵美押勝の名前を受けていた)は軍事クーデターを計画しましたが、孝謙上皇はこれを事前に察知し、結局 淳仁天皇とともに撤退を余儀なくされました。
淳仁天皇が廃された後、孝謙皇太后が重祚し称徳天皇が誕生し、初めて出家したまま皇位に就きました。
淳仁天皇の廃位により皇位継承問題は振出しに戻ってしまったところ、称徳天皇は寵愛していた道鏡に法王という地位を与え、さらには次期天皇に就けたいと考えるようになりました。
しかし、道鏡が法王となった後、宇佐八幡神託事件が起きます。
宇佐八幡神託事件とは「道鏡が皇位に就けば天下泰平となる」という旨の奏上が行われたことに発するもので、これに対して称徳天皇が真意を確かめるために送った和気清麻呂が「皇族でない人間を皇位に就けたことは未だかつてない」との神託を受けた旨を奏上し事態は混乱。結果、和気清麻呂は流罪になったという事件です。
このように皇位継承問題は混乱を見せましたが、皇太子が決まらないうちに称徳天皇は崩御し、後ろ盾を失った道鏡も左遷されました。
第49代光仁天皇・第50代桓武天皇
称徳天皇の崩御後、志貴皇子の子である白壁皇子(天智天皇の孫)が即位し光仁天皇となりました。
第44代元正天皇(天武天皇の孫)以来、ずっと天武天皇系が皇位に就いてきましたが、光仁天皇の即位により天智天皇系に戻ったことになります。
光仁天皇は70歳を超えても政務を執り続け寺社統制や官制改革を行いましたが、衰弱を理由に百済系渡来人である高野新笠との子 山部親王に譲位し桓武天皇が誕生しました。
桓武天皇は784年、天武天皇の以来の都であった平城京から長岡京に遷都します。しかし、遷都の最中桓武天皇と関係の深かった藤原種継が殺害される事件が起こり、その事件の首謀者には同母弟の早良親王も含まれていました。早良親王は無実を訴えましたが淡路に流される途中で死去してしまいました。
この直後、都では桓武天皇の近親の死去、疫病や災害が頻発し、これらが早良親王の怨霊によるものであるとされ、桓武天皇は怨霊を鎮めるため崇道天皇という追号を与え、また長岡京を捨て794年に平安京に遷都しました。
東北地方を平定のため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷平定を行いました。
第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇
桓武天皇の崩御後、早良親王(桓武天皇の同母弟)に代わって安殿親王(桓武天皇の子)が即位し平城天皇が誕生しました。
平城天皇は皇太子のころから、妃の母である藤原薬子を寵愛していました。平城天皇は幼少より身体が弱く、療養を理由に同母弟である神野親王に譲位し神野親王が即位し、嵯峨天皇が誕生しました。
一方、平城天皇の体調は回復し始め、藤原薬子の助言により再び皇位に就くことを夢見るようになります。平城上皇は旧都である平城京に遷都する詔勅を出し 嵯峨天皇と平城上皇の関係は悪化し、二所の朝廷と言われる状況に至ります。藤原薬子と兄 藤原仲成はこの争いを助長しますが、企ては失敗に終わり平城上皇は出家、藤原薬子は自害しました。
この時、空海は嵯峨天皇の勝利を祈念しており 後に東寺(教王護国寺)を賜り真言密教の道場とします。真言宗は最澄の開いた天台宗とともに朝廷に受け入れられし、以降 神仏習合が加速していく要因となりました。
嵯峨天皇は大陸文化を取り入れるために遣唐使を派遣し、第56代清和天皇の御代まで続く弘仁・貞観文化を発展させ、朝廷内部では漢詩等の能力を重視するようになりました。これを文章経国政策といい、多くの漢詩文勅撰集がつくられました。嵯峨天皇自身も漢詩や書道に秀でており、空海・橘逸勢と共に日本三筆に数えられました。
また、天皇の秘書のような役割を果たす蔵人、その長として蔵人頭を設置して平城上皇側を含む朝廷外に秘密文書が漏洩することを防ぎ、他には警察と裁判官の役割を果たす検非違使を設置しました。
第53代淳和天皇
もともとは平城天皇の子 高岳親王が皇太子とされていましたが薬子の変をきっかけに廃され、嵯峨天皇は異母弟である大伴親王に譲位し淳和天皇が誕生し、嵯峨天皇の子 正良親王を皇太子としました。
第54代仁明天皇・第55代文武天皇
淳仁天皇は予定通り皇太子とされていた嵯峨天皇の子 正良親王に譲位し仁明天皇が誕生しました。
このとき 道康(仁明天皇の子・藤原良房の甥)を即位させたい仁明天皇・藤原良房と恒貞親王を即位させたい伴健岑と橘逸勢らで対立が起きますが、結局この企ては失敗に終わり伴健岑と橘逸勢らは左遷されてしまいました。(承和の変)
もともとは淳和天皇の子 恒貞親王が皇太子とされていましたが、承和の変により道康が皇太子となり、仁明天皇から譲位を受け文徳天皇が誕生しました。
文徳天皇は藤原良房の娘 藤原明子を后とし、藤原良房は外祖父としてさらなる権力を有するようになりました。
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第56代清和天皇・第57代陽成天皇
文徳天皇は何人かの子がいましたが、藤原良房の圧力により惟仁親王が9歳の若さで即位することになり清和天皇が誕生しました。
清和天皇の祖父である藤原良房は臣下にして初の摂政に就任し(これまでの摂政はすべて皇族)、この後は藤原北家が娘を天皇の后とし、摂政・関白として政治を動かす摂関政治を行っていくのです。
清和天皇は9歳の子に譲位し、陽成天皇が誕生します。この時、藤原良房の子である藤原基経が実権を握っていました。しかし、この時貞保親王を皇太子に推す陽成天皇の母 高子と貞辰親王を推す藤原基経は兄弟仲が悪く、後継ぎが決まっていませんでした。
結局、混乱を避けるために時康親王(仁明天皇の子、文武天皇の異母弟)が即位することになりました。
第58代光孝天皇・第59代宇多天皇
時康親王が即位し光孝天皇が誕生しましたが、光孝天皇は自らを混乱を避けるために1代に限り皇位に就けられたのだと考え、皇位継承問題が生じることを避けるためにすべての子に臣籍降下(皇族がその身分を離れること)をさせました。
光孝天皇は即位の際、すでに53歳で摂政を置くことができなかったため、新たに関白という役職を置き、藤原基経が政務を執ちつづけました。
しかし、いまだに藤原基経と高子の対立は治まっておらず、皇位継承者は決まらないまま光孝天皇は重篤な状態に陥ってしまいました。そこで源定省と名乗っていた子を引き戻し即位させ、宇多天皇が誕生しました。
宇多天皇は藤原良房を即位させるも衝突し、藤原良房の死去後はこれまでのような藤原氏が政権を握り続ける状況を反省し、幅広い人材を登用しました。
藤原基経の子 藤原時平を参議に置く一方で源氏や菅原道真を登用し、菅原道真の提案により遣唐使の停止などを行い、後に寛平の治として評価されます。
宇多天皇は子の敦仁親王に譲位し太上天皇となりました。
第60代醍醐天皇・第61代朱雀天皇
宇多天皇から譲位を受けた敦仁親王が即位し醍醐天皇が誕生しました。
この時、宇多上皇は藤原氏が外戚となり政権を握ることを防ぐため自らの同母妹である為子内親王を醍醐天皇の后にさせ、また菅原道真を大納言に任じ藤原時平とともに政務を牽引するように命じました。
醍醐天皇は摂関を置かず親政に努め、数々の政治上の功績を残し、後に延喜の治として評価されました。また、『延喜式』や歴史書『日本三代実録』の編纂、日本最古の勅撰和歌集『古今和歌集』の勅撰など多くの文化面でも後世に伝わる大きな功績を残しました。
しかし、藤原時平が「菅原道真が謀反を企んでいる」との偽情報を流して菅原道真を陥れ 太宰府に左遷させる昌泰の変が起こりました。この時、菅原道真の左遷を決定したのは醍醐天皇であり、天皇自ら朝廷でのパワーバランスを崩壊させてしまいした。
醍醐天皇は菅原道真の怨霊によるものであると言われる清涼殿落雷事件以降体調が優れず そのまま崩御してしまいました。
醍醐天皇が崩御すると子が即位し、朱雀天皇が誕生します。
朱雀天皇は若くして即位したため、藤原基経の子 藤原忠平が摂政として政治を行い、天皇親政の時代は終わりを迎えました。
朱雀天皇の治世には藤原純友の乱や平将門の乱などの反乱がおき、これから武士の力が増していきます。また、富士山の噴火などの災害に苦しめられ、同母弟である成明親王に譲位し太上天皇となりました。
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第62代村上天皇
朱雀天皇の譲位により村上天皇が誕生しました。
即位から3年後、藤原忠平が死去し村上天皇は醍醐天皇以来の親政を行い、村上天皇の治世は後に天暦の治と呼ばれ評価されました。
村上天皇は醍醐天皇に倣って『後撰和歌集』を編纂し、政務について『清涼記』を著しました。
また二組に分かれて和歌を詠みあい その優劣を競う歌合が開催され、華やかな後宮を背景に宮廷文化が栄えました。
第63代冷泉天皇・第64代円融天皇
村上天皇の崩御後、子の憲平親王が即位し冷泉天皇が誕生します。
冷泉天皇は精神の病があったとされており、藤原忠平の子 藤原実頼が関白に就き補佐を行いました。
冷泉天皇の後継者を指名するにあたって、同母弟の為平親王(源高明の推薦)と守平親王(藤原師尹の推薦)が争い、969年には源高明が謀反の疑いをかけられ左遷される安和の変が起こり、守平親王が皇太子となりました。
冷泉天皇は即位から2年で守平親王に譲位し、円融天皇が誕生しました。
この時、円融天皇は未だ11歳であり、藤原実頼が摂政に就任後 藤原伊尹が引き継ぎ、その後は藤原兼通が関白に就任しました。
藤原兼通は娘の藤原詮子を円融天皇に嫁がせ、唯一の子である懐仁親王の次期皇太子とすることを条件に同母兄である冷泉天皇の子に譲位しました。
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