奈良時代から律令体制が整えられ、中央集権的な政治が行われるようになりました。当時は祭政一致の原則がとられており、祭祀と政治は一体のものでした。中央には神祇官が置かれ、朝廷祭祀を司っていたとされています。
今回はそんな神祇官について詳しく解説していきます。
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目次
【律令制度の歴史】天智天皇から天武・持統天皇まで
聖徳太子が隋の皇帝である煬帝に対して「日出処の天子、書を日没処の天子に致す」という文書を送ったことで煬帝が激怒したとかしてないとかいう話が残っています。当時の中国は貢物を献上する周辺諸国に対して爵位を与え中国皇帝と君臣関係を結ぶという冊封体制をとっており、かなりの強大な力を有していたことが伺えます。
斉明天皇6年(660年)の日本と友好的な関係を築いていた百済の滅亡や天智天皇2年(663年)の白村江の戦いでの大敗を契機に唐や新羅の力を思い知らされ国制改革に力を入れることになります。
その一環として行われたのが律令体制の実施であり、天智天皇は近江令を施行し、また日本初の戸籍である庚午年籍を作成しました。
天智天皇の御子である大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)による壬申の乱を終え、天武天皇が即位すると飛鳥浄御原令の作成が始められ、時代の持統天皇の御代に施行されました。その後も律令の編纂は続けられ大宝2年には大宝律令が施行されました。
しかしながら、これらの律令は現存しておらず律令の内容を読み取ることができるのは養老律令の注釈書だけとなっています。そこで、ここからは養老律令の内容をもとに律令体制の神祇制度についてわかりやすく解説していこうと思います。
律令官制の構造は二官八省一台六府
二官 太政官 神祇官
八省 中務省 式部省 治部省 民部省 兵部省 刑部省 大蔵省 宮内省
一台 弾正
六府 衛門 兵衛 近衛
神祇官とは祭祀を司る役所。「伯・副・祐・史」で構成される
神祇官について平安時代中期につくられた辞書である『和名類聚抄』では「カミツカサ」のことで唐(古代中国)では大常寺と呼ばれている宗廟儀礼を司る役所であると記されています。
神祇官は伯・副・祐・史の四等官に分類されており、そこからさらに伯以外を大少に分けます。店員はそれぞれ1人で、官位は以下の通りです。
・伯(従四位下)
・大副(従五位下) 少副(正六位上)
・大祐(従六位上) 少祐(従六位下)
・大史(正八位上) 少史(従八位上)
さらに神祇官の下には神部30人、卜部20人、使部30人、直丁2人が置かれています。
- 神部は朝廷の祭祀実務を担当。
- 卜部は卜定(神意を問うために行う亀卜)を担当。伊豆・壱岐・対馬(上県・下県)の四国から採用される。卜部の中から宮主が選出され、
- 使部は氏族からの採用され、雑役を担当。
- 直丁は諸国から遣わされた者で雑役を担当。任期は3年。
神祇官の長官「神祇伯」の仕事は神祇祭祀への奉仕と神祇官の取り纏め
神祇伯の役割について職員令という行政機構について定めた部分には
掌、神祇祭祀、祝部、神戸名籍、大嘗、鎮魂、御巫、卜兆、惣判官事
(掌ること、神祇祭祀、祝部、神戸名籍、大嘗、鎮魂、御巫、卜兆、惣て官の事を判らんことを)
と記述されています。
(補足)
- 神祇祭祀とは神祇令という律令祭祀について定めた部分に記された恒例祭祀・臨時祭祀のことで祈年祭や新嘗祭、鎮花祭、鎮火祭、神衣祭などが挙げられる
- 祝部とは国司によって神戸の中から選ばれた神社の下級神職のことで神祇伯が祝部の賛詞を行う
- 神戸名籍とは神社に所属し祭祀や経済に携わる人々の名簿ことで神祇伯が取り扱った
- 大嘗、鎮魂とは大嘗祭、鎮魂祭のこと
- 御巫とは神に仕える女性で、五人が選ばれた
- 卜兆とは天皇の御身体を卜うこと
まとめ
律令官制は二官八省一台六府からなる
神祇官は伯・副・祐・史の四等官に分けられる
四等官の下には神部、卜部、使部、直丁が置かれる
神祇伯は朝廷祭祀に関する様々な職掌を持つ